教育現場における教育勅語の使用に関する声明
2017年4月27日 教育研究者有志
【要約】
次世代を担う子どもたちの成長に対し重要な責任を負う教育において、現憲法下での国民主権に反する教育勅語を復活させることは弊害が大きい。しかし、最近の政府は「憲法や教育基本法の趣旨に反しない」という条件をつけながらも、「教員および学校長の判断において」教育勅語の学校教育での使用を容認する姿勢を示している。これは教育勅語そのものが憲法と教育基本法に反しているとした過去の国会決議や政府発言を根拠なく変更するものである。
それゆえ我々は、「教育現場において、教育勅語の全体及び一部を、その歴史的な性格に対する批判的な認識を形成する指導を伴わずに使用することを認めない」という決然たる姿勢を政府に求めるとともに、教員・学校長・所轄庁のいずれもが、民主主義・国民主権・基本的人権と相対立する教育勅語の思想や価値観と決別することの必要性を、強く訴える。
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現代においては、国境を超えた人々や情報の交流が進むとともに、人々の生活や人生の多様化も進んでいる。このような中で次世代を担う子どもたちは、多様な他者との協同のもとで、全ての人々の基本的人権を尊重し民主主義的な社会を築く主体となることが期待されており、そのために教育は重要な責任を負っている。それゆえ、戦前の大日本帝国憲法下における「国家元首かつ統治権の総攬者」としての天皇や国体思想を前提とし、現憲法下での国民主権に反するかつての教育思想を現在に復活させることは、いかなる面から見ても弊害が大きいことは論を俟たない。しかるに今、教育勅語を教育現場で使用することに対する政府の容認的姿勢が目立ち始めている。
政府は、2017年2月27日に逢坂誠二議員より提出された「教育基本法の理念と教育勅語の整合性に関する質問主意書」に対する答弁書において、学校教育法上の学校において教育のために教育勅語が使用されること、教育勅語を繰り返し暗唱させることに関して、「お尋ねのような行為が教育基本法(平成十八年法律第百二十号)や学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)に違反するか否かについては、個別具体的な状況に即して判断されるべきものであり、一概にお答えすることは困難である。その上で、一般論として、仮に、同法第一条の「幼稚園」又は「小学校」(以下これらを合わせて「学校」という。)において不適切な教育が行われている場合は、まずは、当該学校の設置者である市町村又は学校法人等において、必要に応じ、当該学校に対して適切な対応をとり、都道府県においても、必要に応じ、当該学校又は当該学校の設置者である市町村若しくは学校法人等に対して適切な対応をとることになる。また、文部科学省においては、必要に応じ、当該学校の設置者である市町村又は当該都道府県に対して適切な対応をとることになる。」と答弁している。
その後も国会答弁、文部科学省記者会見、質問主意書に対する答弁において、政府は「憲法や教育基本法の趣旨に反しない限り」、「教員および学校長の判断において」教育勅語の学校教育での使用を容認し、不適切な場合は「所轄庁が適切に指導する」という発言を繰り返している。
むろん、個々の教師は思想信条の自由を保障されるべきであり、また私立の学校は建学の理念に即した教育を行うことが認められている。しかし、教育勅語という対象への上記のような政府の姿勢は、過去の国会決議や政府見解に照らせば、従来の方針に対して重大な変更を恣意的に加えたものと言わざるをえない。
すでに1948年の時点で、衆参両院は、「根本理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる」(1948年6月19日衆議院・教育勅語等排除に関する決議)との理由から、教育勅語の排除・失効を決議している。それゆえ、教育勅語そのものが憲法と教育基本法に反しているのであり、「それらに反しない」形での使用とは、「教育勅語は憲法と教育基本法に反している」ことを教える場合のみであるということになる。
また歴代文部大臣は、「敗戰後の日本は、國民教育の指導理念として民主主義と平和主義とを高く揚げましたが、同時に、これと矛盾せる教育勅語その他の詔勅に対しましては、教育上の指導原理たる性格を否定してきたのであります」という1948年6月19日第2回国会衆議院本会議における森戸辰男文部大臣発言、およびある私立高校が学校行事で教育勅語を朗読していることが問題とされた際の「昭和二十一年及び二十三年、自後教育勅語を朗読しないこと、学校教育において使わないこと、また衆参両議院でもそういう趣旨のことを決議されております。(中略)教育勅語の成り立ち及び性格、そういう観点からいって、現在の憲法、教育基本法のもとでは不適切である、こういうことが方針が決まっておるわけでございます」という1983年5月11日第98国会参議院決算委員会における瀬戸山三男文部大臣発言等、これを教育理念とすることを明確に否定してきた。過去の国会決議や政府発言と比べて、今回の政府見解等は、教育勅語への容認の度合いを根拠なく強めるものであり、正当性を欠いている。
さらに、以下の諸点において、前記の政府の姿勢は、子どもたちが民主主義的な社会の担い手として成長を遂げる過程に対し、教育現場で教育勅語が不適切な形で使用される事態を防ぐためにはきわめて不十分である。
第一に、その成り立ちや性格全体から切り離して、憲法や教育基本法の趣旨と一見合致するような教育勅語の一部分が教育現場で使用された場合、教育勅語全体の性質や歴史的背景についての批判的理解が子どもたちに形成されないおそれがある。
第二に、実際に学校教育法上の学校(幼稚園を含む)において教育勅語の朗読等が長期にわたり行われていた複数の事例が存在することからもわかるように、憲法や教育基本法の趣旨と反する思想をもつ教員や学校長が教育勅語を使用し、所轄庁の発見や指導が遅れたり不十分となったりするケースは容易に想定される。その場合、子どもたちは、そのような教育が行われなければ実現されていたはずの成長を阻害されるという点で、多大な損害を被ることになる。
これらの理由により、教育現場における教育勅語の不適切な使用に対しては、より実効ある防止策が求められる。
それゆえ、我々は、過去の政府見解も踏まえ、「教育現場において、教育勅語の全体及び一部を、その歴史的な性格に対する批判的な認識を形成する指導を伴わずに使用することを認めない」という決然たる姿勢を政府に求めるとともに、教員・学校長・所轄庁のいずれもが、民主主義・国民主権・基本的人権と相対立する教育勅語の思想や価値観と決別することの必要性を、強く訴えるものである。
2017年(平成29年)4月27日
教育研究者有志
※賛同者名簿は以下を参照
賛同者(2017年4月27日7時時点。五十音順。敬称・所属略)
浅井 幸子 飯田 浩之 生澤 繁樹 乾 彰夫 今井 康雄
今津 孝次郎 岩下 誠 岩見 和彦 植田 健男 上西 充子
上野 正道 上間 陽子 上森 さくら 牛渡 淳 内田 良
大内 裕和 大多和 直樹 大橋 基博 岡邊 健 岡本 智周
小川 正人 尾川 満宏 小澤 浩明 小野田 正利 折出 健二
影浦 峡 柏木 智子 片岡 洋子 片山 勝茂 片山 悠樹
加野 芳正 釜田 史 苅谷 剛彦 河上 婦志子 菊地 栄治
北村 友人 木戸口 正宏 木村 拓也 木村 元 木村 涼子
久冨 善之 久保田 貢 小国 喜弘 小杉 礼子 児美川 孝一郎
子安 潤 佐久間 亜紀 佐々木 啓子 佐藤 香 佐藤 学
佐野 正彦 澤田 稔 敷田 佳子 篠崎 祐介 志水 宏吉
清水 睦美 白川 優治 杉田 真衣 鈴木 雅博 高田 一宏
高野 和子 高橋 寛人 多賀 太 竹石 聖子 武井 哲郎
竹内 常一 竹内 久顕 竹川 慎哉 田尻 敦子 田中 智志
谷口 知美 谷尻 治 知念 渉 土屋 明広 筒井 美紀
土井 妙子 豊田 ひさき 中井 睦美 仲田 康一 仲嶺 政光
中村 清二 二宮 祐 仁平 典宏 額賀 美紗子 能智 正博
野崎 志帆 野平 慎二 南風原 朝和 橋本 紀子 長谷川 裕
羽田野 真帆 ハヤシザキカズヒコ 樋口 明彦 平石 晃樹 平塚 眞樹
福田 敦志 藤井 啓之 藤田 武志 星加 良司 堀 健志
本田 由紀 松下 佳代 松田 盛雄 松田 洋介 森 直人
山岸 利次 山田 隆幸 山田 哲也 山中 吾郎 山本 敏郎
山本 宏樹 山本 雄二 湯川 嘉津美 油布 佐和子 吉川 卓治
芳澤 拓也 吉田 文 米田 俊彦 李 正連 渡辺 雅之
亘理 陽一
教育勅語関連資料
日付
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場所
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発言
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平成29年4月18日
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教育勅語を道徳科の授業で扱うことに関する質問主意書に対する答弁書
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教育に関する勅語については、御指摘の昭和二十三年六月十九日の衆議院本会議の「教育勅語等排除に関する決議」において、お尋ねにあるとおり「教育勅語(中略)の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる」とされた上で、「よつて憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する」と決議され、また、御指摘の同日の参議院本会議の「教育勅語等の失効確認に関する決議」において、「われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は・・・既に廃止せられその効力を失つている」と決議されたと承知しているところ、政府としては、森戸文部大臣(当時)が、同日の衆議院本会議等において、「敗戦後の日本は、国民教育の指導理念として民主主義と平和主義とを高く掲げましたが、同時に、これと矛盾せる教育勅語・・・に対しましては、教育上の指導原理たる性格を否定してきたのであります。このことは、新憲法の制定、それに基く教育基本法並びに学校教育法の制定によつて、法制上明確にされました」等と答弁しているとおりであると考えている。
その上で、お尋ねの「道徳科の授業の中で、教育勅語を一つの是認されるべき価値として教えること」の意味するところが必ずしも明らかでないが、政府としては、特別の教科である道徳等の教科等の授業を含む教育の場において、憲法や教育基本法(平成十八年法律第百二十号)等に反する形で教育に関する勅語を用いることは許されないと考えているところであるが、教育に関する勅語を教育において用いることが憲法や教育基本法等に違反するか否かについては、まずは、学校の設置者や所轄庁において、教育を受ける者の心身の発達等の個別具体的な状況に即して、国民主権等の憲法の基本理念や教育基本法の定める教育の目的等に反しないような適切な配慮がなされているか等の様々な事情を総合的に考慮して判断されるべきものである。また、教育において、憲法や教育基本法等に反する形で教育に関する勅語が用いられた場合は、まずは、学校の設置者や所轄庁において適切に対応すべきである。
「このような意味での「夫婦相和シ」は現代でも正しい価値であるとお考えか」とのお尋ねについては、その趣旨が必ずしも明らかでないため、お答えすることは困難であるが、男女の平等の理念に反するようなことがあってはならず、夫婦は同等の権利を有していることは言うまでもない。
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平成29年4月14日
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アドルフ・ヒトラーの著作「我が闘争」の一部を、学校教育における教材として用いることが否定されるかどうかに関する質問主意書に対する答弁書
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学校での国語科や道徳の時間を含む全ての教科等の指導における教科用図書以外の教材の使用については、学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第三十四条第二項等の規定に基づき、教科用図書以外の教材で有益適切なものは使用することができることとされており、文部科学省が各都道府県教育委員会等宛てに発出した「学校における補助教材の適正な取扱いについて」(平成二十七年三月四日付け二十六文科初第千二百五十七号文部科学省初等中等教育局長通知)において示した教育基本法(平成十八年法律第百二十号)等の趣旨に従っていること等の留意事項を踏まえた有益適切なものである限り、校長や学校の設置者の責任と判断で使用できるものである。その上で、御指摘の「アドルフ・ヒトラーの著作「我が闘争」」については、同書の一部を引用した教材を使用して同書が執筆された当時の歴史的な背景について考察させるという授業が行われている例があると承知している。他方、仮に人種に基づく差別を助長させるといった形で同書を使用するのであれば、同法等の趣旨に合致せず不適切であることは明らかであり、万一このような指導がされた場合には、所轄庁や設置者において厳正に対処すべきものである。
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平成29年4月14日
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衆議院議員宮崎岳志君提出「教育ニ関スル勅語」の教育現場における使用に関する質問に対する答弁書
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衆議院議員宮崎岳志君提出「教育ニ関スル勅語」の教育現場における使用に関する質問に対する答弁書
一及び二について
お尋ねの「基準」の具体的に意味するところが必ずしも明らかではないが、教育に関する勅語を教育において用いることが憲法や教育基本法(平成十八年法律第百二十号)等に違反するか否かについては、まずは、学校の設置者や所轄庁において、教育を受ける者の心身の発達等の個別具体的な状況に即して、国民主権等の憲法の基本理念や教育基本法の定める教育の目的等に反しないような適切な配慮がなされているか等の様々な事情を総合的に考慮して判断されるべきものであるが、教育に関する勅語を、これが教育における唯一の根本として位置付けられていた戦前の教育において用いられていたような形で、教育に用いることは不適切であると考えている。
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平成29年4月12日
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衆院地方創生特別委(非公式書き起こし)
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○宮崎
関連して、義家副大臣に来ていただいておりますので、1点だけ教育勅語の問題についてお伺いしたいと思います。義家副大臣は、先般の国会質疑において教育勅語の朗読は特に問題はないというふうに答弁をされました。また松野文科大臣は教育勅語等の教材としての利用について、校長や、教員の個々の判断によるものだと。こういう趣旨の答弁をされております。教育勅語については、そういう御判断なんだろうなと思いますが、例えば私、前回文科委で、松野大臣質問した、例えば「我が闘争」という、国際的にいろいろ物議をかもそうしている本があるが、こういったものは、朗読が学校でですね、朗読をさせるということ可能なのか。あるいは、戦前のですね。軍人の心構えを記した先人訓とか、軍人直喩とかそういうものもあります。こういったものはすべて学校教育で、朗読をさせる、あるいは道徳等のですね、つまり歴史教育以外の、あるいは公民教育とか歴史教育以外のところ。道徳等ですね。そういったところに使うことも許されるのか、この点について御答弁いただきます。
○義家
お答えいたします。まず誤解のないように申し上げますが、教育勅語が我が国の教育の唯一の根本とすることなく、憲法や教育基本法、学習指導要領に反しないような適切な配慮が行われている中で、授業において教科書に記載されている教育勅語について、「これを読んでみろ」等の指導をすることは、これは問題ではないと申し上げた次第であります。その上で、ただいまの質問である教育勅語ではなく我が闘争や、戦陣訓、軍人勅諭、などの朗読についてでありますが、学校でのすべての教科等の指導における教科書以外の教材の使用については、学校教育法34条第2項の規定に基づき、教育基本法の趣旨に従った有益適切なものである限り校長や設置者の判断と責任で使用できるものであり、ます。文部科学省においては、これらの教材の適正な取り扱いについて法令等の趣旨に従っていることなど留意点を示した上で、校長設置者が教材について適切な取り扱いを行うよう指導を行っておりますが、まず、学校は自治事務であるとともに、私学については、私立学校法により建学の精神に基づく指導が最大限に保障されている等の仕組みとなっておりまして、各学校における個々の教材の具体的な是非についてあらかじめ判断する立場にはございません。その上で、御指摘のあった書籍等については、その一部を引用した教材を使用して、当時の歴史背景について考察させる授業が考えられまた一部にはそのような例があると承知しております。他方仮にこれらの書籍等が国民主権や基本的人権の尊重などの原則に反するといった形で、使用されるのであれば、法令との趣旨に合致せず不適切であること明らかであり、万一、このような指導がなされた場合には、所轄庁や設置者において厳正に対処すべきであると考えております。つまり、これは社会科であろうと、道徳であろうと、この原則が当てはまるということでございます。
○宮崎
時間少々超過しておりますが、我が党の向山議員の方から少々食い込んでも構わないという殺しいただきましたので、あと若干ですが続けさせていただきます。今の御返事はですね。私の質問の趣旨とは、やはり少々違います。例えば「我が闘争」について、そもそもそれを、一部を切り取って道徳教育等に使うことそのものが学校教育法の趣旨に反するんではないかと。もちろんですね、歴史背景を学ぶとか、あるいは国民主権について学ぶとかという文脈で使えば問題ないのは明らかでありますが、それとは関係ない部分について、ですね、使っても大丈夫なのかといいのかと。そこについて質問してるんです。もちろんその文章の中に問題点があれば、問題ですが、その文章の中にですね、文章そのものには問題がない。いうものを、例えば朗読をさせる、毎日朝礼で朗読をさせるとか、あるいは副教材に使うと、そういったことは許されるんでしょうか。もう一度明快に御答弁願います。
○義家
お答えいたします。まず第1に、我が闘争については、一部の教科書にそのまま載っております。載っております。その上で、歴史的な体験について考察させる等の授業があるやに承知しておりますが、国民主権や基本的人権の尊重などの原則に反する使用は、これは合致せず、不適切であるということは明らかです。
○宮崎
私がいっているのはそうではありません。今、教科書に載っているものは、それを、歴史の1場面として、あるいは批判的に取り扱うという歴史教育や国民主権について考える公民教育の中で、まさに批判的な視点から取り扱うということですからいいというのは、これはほとんどの方が納得されることと思います。そうではなくて、その一部分を切り取って、その文章そのものに問題はないから、副教材に使うなどし、それを朗読をさせるということがいいのかどうか、道徳の授業で、そういったものを読み上げさせるというのがいいのかどうか、そういうことを言っておるんです。
○義家
お答えいたします。批判的に取り扱うことはいいと委員はおっしゃっておりますけれども、一つの事象に対して、とんでもない悲劇があったという歴史の中で、こういう本が出ているが、しかしながら、このナチスドイツが行った、過去に例のないような悲惨なことについて、命について、そして政治について等々考えさせる授業はあるのではないかと思います。実際に教科書に●ところであります。
○宮崎
まるで私の質問に答えておりません。そんなのは歴史的なものとしてあるいは批判的な視点から取り扱いの当たり前のことです。そうじゃなくて、そうじゃなくて取り扱う場合はどうなんですが、それは許されるんですか許されないんですか。そこを伺っている。
○義家
だとすればどのように取り扱うことというふうに具体的な例示をしていただければいいのであろうというふうに思いますが、憲法、教育基本法、学習指導要領にのっとって法令に基づいた指導が行われていなければ不適切であるというふうに思います。
○宮崎
私はかねて具体的に申し上げております。我が闘争の中の、特にその文章だけでは問題はないような部分、例えば不屈の精神を養うというような文章があるとして、それを道徳の副読本に載せて、そしてそれを朝礼等で毎日暗唱させると。別にその文章の中には問題点はない。しかしそれを道徳の副読本に載せて、暗唱させるということは、どうなんですかと。具体的にお伺いしてるんです、いいんですか、いけないんですか。
○義家副大臣
過去の悲惨な歴史の当事者たる人物の著作について、当事者たる人物を教えずして、表面にある文言だけを朗読させながら、肯定するというものは適切ではないと思っております。
○宮崎
適切ではないというお答えをいただきました。以上質問終わります
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平成29年4月11日
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教育勅語を道徳教育に用いようとする動きに関する質問主意書
仲里利信
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教育勅語を道徳教育に用いようとする動きに関する質問主意書
教育勅語を学校教材に使うことを容認した政府答弁書が示され、衆議院及び参議院での教育勅語の排除等決議や憲法に反した政府の恣意的な動きが顕著となっている。このような取り組みは明らかに戦前回帰の無謀な行為であり、断じて容認できるものではない。
そこで以下お尋ねする。
一 教育基本法や学校教育法、同法施行規則、学習指導要領、義務教育諸学校等で定める目的や理念、目標、基準等に基づき、道徳教育はどのようにあるべきか、そしてそのためにはどのような教材を使うべきか、どのように子供たちに教えるべきか、などについて政府の認識と見解を答えられたい。
二 全国の義務教育諸学校等において、戦前・戦中の教育勅語を道徳の教材として使用している状況について政府の承知するところを明らかにした上で、教育勅語を道徳教材として用いること並びにその他の教科において何らかの形で用いることの是非について政府の見解を答えられたい。
三 報道によれば、松野博一文部科学大臣は「教育勅語を道徳教材に用いることを肯定したものでも否定したものでもない」とか「私の発言は道徳に限定されるものではなく、すべての教科などの教材に共通する考え方を述べたもの」等としたとのことである。しかし、松野大臣のこのような「否定も肯定もしない」との説明は、学校教育に対する姿勢や理念を明らかにしようとしないものであり、所管大臣としての資質が疑われるものであるが、政府の認識と見解を答えられたい。
四 質問三に関連して、松野大臣の答弁は、教育勅語に対する衆議院での排除決議や、参議院での失効確認決議という国権の最高機関である国会の決議に反するものであると思われるが、政府の認識と見解を答えられたい。
五 報道によれば、菅義偉官房長官は教育勅語を教材で使うことについて「憲法や教育基本法に反しないような適切な配慮のもとで取り扱うことまで、あえて否定すべきではない」と述べたとのことである。しかし、一体教育勅語の何が憲法や教育基本法に反しないとするのか、適切な配慮とは一体如何なるものなのか、その真意と内容について政府の認識と見解を答えられたい。
六 質問五に関連して、教育勅語では、その前段で父母への孝行、夫婦・兄弟姉妹との和、友人との信義等を列挙し、天皇が国民に臣民としてのあるべき道を示し、事ある時には一身を捧げて「皇室国家」の為に尽くせと義務付けているわけであるが、このような個人の生活にまで天皇が指図することは、我が国憲法の国民主権や基本的人権を著しく損なうものであると思われるが、政府の認識と見解を答えられたい。
七 質問六に関連して、我が国憲法に明らかに反する教育勅語を朗読させたり、正しいものとして教えたりすることは、我が国憲法に基づく自由民主主義の政治システムや国民主権と相いれないものであると思われるが、政府の認識と見解を答えられたい。
八 質問六及び七に関連して、教育勅語に対する衆議院での排除決議や、参議院での失効確認決議が行われた趣旨とその内容、さらには我が国憲法との整合性に鑑みるならば、松野大臣及び菅官房長官の説明は極めて不適切であり、政府として、今後いかなる形であれ教育勅語を教育現場で用いるべきではないことを明確に宣言すべきであると思われるが、政府の認識と見解を答えられたい。
九 近年、我が国では、教育勅語を幼稚園で暗唱させたり、そのような教育方針を評価する声が取り上げられたり、挙句の果てには教育勅語を学校教材として使うことを否定しないとする答弁書が閣議決定されたりするなどしている。このような動きは戦前への回帰を目指しているのではないかと思われ、まことに嘆かわしい風潮であると思われるが、政府の認識と見解を答えられたい。
十 識者によれば、学校教育とは、子供たちが自分自身で物事を判断できるようにするための材料を提供する場であり、教えてよい話とそうでない話をきちんと分けて行うべきであるとのことである。本職も識者のそのような考えを強く支持するものであり、そのような考えに立つならば、表現の自由の名の下に、為政者の恣意的な判断で憲法に反した教育勅語を学校教材として用いるべきではないし、その内容を教えるべきではないと思われるが、政府の認識と見解を答えられたい。
十一 本職は、多くの住民が巻き添えとなった沖縄戦の体験者として、再び悲惨な戦争を繰り返さず、尊い人命が失われることがないようにすることを切に願うものである。また、日本軍の軍命による住民の集団強制自決や、中高校生で組織された鉄血勤皇隊・女子学徒の戦争動員等のような悲劇が二度と引き起こされることがないことも願うものである。そして、そのためにも無謀な戦争へひたすら駆り立てていった戦前の国家主義や、それと結びついた皇民化教育と道徳主義、さらにはそれらの根源となった教育勅語を純真無垢な子供たちに教え込むようなことは決して行うべきことでないと考えるが、政府の認識と見解を答えられたい。
右質問する。
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平成29年4月10日
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教 育 勅 語 を 道 徳 科 の 授 業 で 扱 う こ と に 関 す る 質 問 主 意 書
長妻昭
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教育勅語を道徳科の授業で扱うことに関する質問主意書
一八九〇年に発布された教育勅語は、「根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際 信義に対して疑点を残すもととなる」として、一九四八年に衆議院において排除の決議がなされた。
安倍内閣は、教育勅語について、根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいているとお考えか。また、その事実は明らかに基本的人 権を損ない、且つ国際信義に対して疑点を残す、とお考えか。お尋ねする。
本年四月四日午後の会見で、菅官房長官は、記者の「教育勅語を道徳の教材として用いる、そういうケースは想定されないか」との質問に、「教育勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である。一方で、憲法の基本理念である基本的人権の尊重や 国民主権、教育基本法に反しないような適切な配慮のもと、取り扱うことまであえて否定するものでない」と答え、教育勅語の道徳の教材 としての使用を一定の前提の下に是認した。
また、本年四月七日の衆議院内閣委員会で、義家文部科学副大臣は、幼稚園など教育現場で子どもたちに教育勅語を朗読させることについ て「教育基本法に反しない限りは問題のない行為である」と答弁している。
現在、歴史の教科書には、教育勅語全文が掲載されているもの もあり、歴史の教訓として教育勅語を教材として使用することは問題ないと考える。しかし、衆参両院で排除・失効決議がなされている教 育勅語を道徳教育で使ったり、教育の現場で子どもたちに朗読させたりすることを政府が是認することには問題があると考える。 内閣の 見解をお尋ねする。
また、来年四月からは小学校で、再来年四月からは中学校で始まる道徳科の授業で、教育勅語を教材として使うことも是認するのか、内閣 の見解を問う。
また、道徳科の授業の中で、教育勅語を一つの是認されるべき価値として教えることは内閣として否定するものではないのか、お尋ねする。
安倍内閣の閣僚からは、教育勅語には「夫婦相和シ」との正しい価値観もある、との趣旨の発言がある。しかし、一八九一年出版の教育勅語の事実上の公式教科書(解説書)である勅語衍義(えんぎ)には、「夫婦相和シ」について「妻ハ元ト智 識才量多クハ夫ニ及バザルモノナレバ、夫ガ無理非道ヲ言ハザル限リハ、成ルベク之レニ服従シテ」とあり、男尊女卑の発想の上での「夫 婦相和シ」である。内閣は、教育勅語における、このような意味での「夫婦相和シ」は現代でも正しい価値であるとお考えか。内閣の見解 を問う。
右質問する。
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平成29年4月7日
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衆議院内閣委員会
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義家弘介文部科学副大臣が7日の衆院内閣委員会で、幼稚園児に教育勅語を朗読させることについて「教育基本法に反しない限り問題のない行為」と答弁した。
民進党の泉健太議員が、学校法人「森友学園」が運営する幼稚園の従来の教育方針に触れたうえで、「朗読は問題のない行為か」とただしたことに答えた。
教育勅語は、日本国憲法が掲げる「国民主権」や「基本的人権」と真っ向から対立するため戦後、衆参が排除、失効を決議している。
また、中曽根内閣だった1983年、参院決算委員会で、瀬戸山三男文部大臣が島根県の私立高校が学校行事で教育勅語を朗読していたことについて、「教育勅語を朗読しない、学校教育において使わないことで今日まで(全国の学校に)指導してきた」と述べていた。
(https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/203173)
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平成29年4月6日
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「教育ニ関スル勅語」の教育現場における使用に関する質問主意書
宮崎岳志
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菅官房長官は四月四日の記者会見で「教育ニ関スル勅語」の教材としての利用について「憲法や教育基本法に反しないような、適切な配慮の下で取り扱うことまでも否定するものではない」と発言している。これについて、以下の事項について質問する。
一 「教育ニ関スル勅語」を実際の教育の中で用いる際、憲法や教育基本法などに反するか否かを判断する基準は何か。
二 「教育ニ関スル勅語」を幼稚園において毎日、唱和するのは問題ないと考えるか。
右質問する。
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平成29年4月4日
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松野博一文部科学大臣記者会見
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記者)
教育勅語に関することでお尋ねします。昨日の国会の審議でも大臣が御発言されていらっしゃいましたが、改めて、先日閣議決定された、憲法や教育基本法などに反しない形での学校現場の使われ方まで否定されるものではないという答弁書に関連して、どういうケースが反しないのか、当たるのか、それについて、まずは大臣のお考えをお聞かせ願いますでしょうか。
大臣)
まず、これはもう皆さん御承知のことでありますが、教育勅語は、日本国憲法及び教育基本法の制定等をもって法制上の効力を喪失している、法的効力のない文章でございます。ですから、学校において教育勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切でありますが、憲法や教育基本法に反しないような形で教育勅語を教材として用いることは、否定されることではないと考えております。要は、教材を考える時に教材自体の性質を問うよりも、教材をもって教師による教育がどう進められるか、どういった趣旨で進められるか、その点にポイントを置いての今回の答弁書であるかと私は考えております。例えば、これももう皆さん御承知であり、皆さんも学校で勉強された通り、中学、高校の歴史、公民、倫理等の教科書には、教育勅語の全文または一部が掲載をされているわけであります。ですから、教育勅語を教育の場から全てこれは排除すべきだという御意見の方もいらっしゃいますが、そうなりますと、この検定を受けた教科書の性質、性格、ポジションというのは一体どういうものであるかということの議論にもなると思います。要は、歴史も学ぶにあたって、例えばこれは教育勅語以外でも日本史、世界史、公民、倫理の中においては、様々な今の憲法の趣旨から考えれば、その資料、その文章自体は憲法の趣旨に反する文章というのは多く記載がされている訳であります。しかし、それをもって排除すべきということではなくて、それをもって先ほど申し上げた通り何を教えるのか、この文書が出された時の歴史的な背景の問題であったり、歴史の発展段階の問題であったり、様々なことをその資料を通じて教師は教えたいという意図で使われるものでありますから、そういった使われ方に関して、これは教育勅語に絞って言っても、そういった観点から教材として使われることは問題がない。現に日本の中学、高校、小学校も含めて、そういったことをもって教育がなされてきたと、私は認識をしているということであります。
記者)
それに関連しまして、菅官房長官が昨日の会見で、教育勅語に書いている道徳を示した部分、その部分について、道徳の授業というか、道徳を学ぶ意味で使っても問題はないかという問いに対して、否定するものではないとおっしゃっていたのですが、そういうのも大臣のお考えでは問題ないのか。
大臣)
私の基本的な考え方は、どの教材を使ってどう教えるかについては、憲法の趣旨であるとか教育基本法の趣旨に反しない限りは、一義的には教員、学校長の権限にあるものだと考えております。ですから、文部科学大臣がこの教材をこういうふうに使ってはだめですとか、こう使いなさいとか、それを明示的に発言するというのは、まさに、この教員の、どういった教え方をするのかということに関してオーバーライズすることですから、発言は控えたいと思いますが、しかし付け加えさせていただきますと、繰り返しになりますが、その教え方が問題がある、適切でない、広く言えば憲法、教育基本法に反するということであれば、その所轄庁であり、もしくは所管庁が適切に指導をされるものと考えております。
記者)
聞き方を変えるのですが、教育勅語の中に道徳を示す部分があって、その部分はいいんだと、教育勅語を持ち出して道徳の部分を教えること自体には問題ないのでしょうか。
大臣)
質問の趣旨がちょっと。
記者)
個々の道徳の徳目の部分は、教育勅語を持ち出すまでもなく、いろいろなところでその大切さが説かれているわけではありますが、教育勅語をわざわざ持ち出して、道徳の徳目の部分を教える必要があるのでしょうか。
大臣)
私、直接発言をお聞きしてないので、前後のニュアンスはわかりませんが、私が推察するにあたり、教育勅語の中にある、例えば友情に対する部分であるとか、家族関係に関する部分というのは、学習指導要領の中にも同様の方向が記載をされているという意味において使われることがあるのではないかという趣旨ではないかと推察をいたしますが、まさに道徳を教えるにあたって、この教材を使うべきだとか、べきではないという話ではないだろうと思います。逆に言うと、道徳を教えてるために、教育勅語のこの部分を使ってはいけないというふうに私が申し上げるべきでもないと考えます。
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平成29年4月4日
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第193回国会
衆議院
財務金融委員会
第11号
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○宮本(岳)委員 日本共産党の宮本岳志です。
森友学園問題について質問いたします。
森友学園の新理事長は、理事長就任に当たっての言葉を塚本幼稚園のホームページに掲載をいたしました。資料一として配付しておりますので、見ていただきたい。
二〇〇六年改正の教育基本法に基づく前理事長の教育理念と方針及び指導法を抜本的に見直して、下線部、今後は、教育基本法が一九四七年に制定された際に示された、我らは個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にして、しかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を徹底しなければならないとの指針を常に念頭に置きつつ、内容、カリキュラムを柔軟に見直してまいりますとあります。
私は、仮に森友学園がこの言葉どおりに進むのであれば、それは真っ当な道だと思います。こうして、教育勅語の暗唱で世間を騒がした幼稚園が、その誤りに気づき、生まれ変わろうとしているときに、去る三月三十一日、政府が、こともあろうに、教育勅語を教材として用いることまでは否定されることではないとの政府答弁書を閣議決定した。このことに国民の批判が沸き起こっております。
答弁書も、一についてで、一九四八年六月十九日、衆議院本会議での森戸文部大臣の答弁を引いて、教育勅語が教育上の指導原理たる性格を否定されていること、それは新憲法、つまり日本国憲法と、それに基づく、一九四七年、教育基本法の制定によって法制上明確にされたと述べております。
ならば、そもそも教育勅語は憲法と教育基本法に反しているのではないか。文部科学省、いかがですか。
○白間政府参考人 お答えを申し上げます。
ただいま宮本先生の御指摘のありました答弁書におきましてお答えしていますとおりでございますけれども、教育勅語については、日本国憲法及び教育基本法の制定等をもちまして法制上の効力が喪失しているというのは御指摘のとおりと考えております。
一方、学校において、教育勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導、こういったことを行うことは不適切であるというふうに考えております一方、憲法や教育基本法等に反しないような形で教育勅語を教材として用いることまでは否定されるものではない、このように考えている旨を答弁書でお答えさせていただいたところでございます。
○宮本(岳)委員 みずから、教育勅語は憲法と教育基本法に反しているという森戸大臣の六十九年前の答弁を引きながら、その憲法と教育基本法に反しないような形でなら教育勅語を教材として使ってよいと言うのだから、この答弁書は支離滅裂だと言わなければなりません。
ここで、ちょっと麻生大臣にお聞きするんですが、大臣は、かつて外務大臣時代、二〇〇六年五月二十六日の教育基本法に関する特別委員会で、「「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」というところが一番ひっかかる」と述べ、皇運と書いてあるから非常に問題があるのではないかという指摘は当たっていると答弁をされております。資料二に、きょうは議事録もつけておきました。
これは、まさに国会決議にあるように、主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実に問題がある、こういうお考えでございますね。
○麻生国務大臣 教育勅語、「朕惟フニ、」という、これを全部言えるんでしょう。あ、言えないのか。言えないのか。共産党は習わないのか。習わないだろうな。
「一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。」という言葉があるんですよ、その真ん中の後半のところに。そのところは、皇室の運と書いてあるところを国運というならともかく、皇室の運と書いてあるところが一番問題になったところではないかという点が一点。
それから、もう一点は何かというと、「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ、」、夫婦仲よくしなさい、兄弟仲よくしなさい、ずっと書いてあることはみんなまともなことが書いてあるんだから、何ということはないのであって、この点、教育勅語をもってして、明治憲法の素案になり得るといって、由利公正という人が明治二十何年に書かれたものだ、私はそう習ったんですけれども。その習った内容のところで、「拳々服膺シテ、咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」、天皇陛下はこいねがっておられるのであって、命令しておるわけではない、これもはっきりしていますから。
したがって、問題点は、皇運というところの一点が一番問題なのではないかといったのが私の記憶です。
〔委員長退席、土井委員長代理着席〕
○宮本(岳)委員 いずれにせよ、主権在君あるいは神話的国体観というものに結びつくからまずいという御答弁だと思うんです。
今お話があったように、親孝行しなさい、兄弟は仲よくしなさい、夫婦は仲よくしなさい、こういうことはまともなことだ、ここだけなら何もおかしいことはないとよく言われます。しかし、お父さん、お母さんを大切にとか、友達とは仲よく、いじめをなくそうとか、しっかり勉強して世の中の役に立つ人になろうとか、こういうことは、別に教育勅語を使わなくとも、既に学校教育の中でさまざまやっていることだと思うんですね。
文部科学省に改めて確認しますが、こんな当たり前の教育も現在の学校ではやってないんですか。
○白間政府参考人 お答え申し上げます。
現在の学習指導要領の中では、道徳科の内容項目におきまして、例えば小学校一学年、二学年におきまして、友達と仲よくし、助け合うこと、あるいは働くことのよさについて知り、みんなのために働くこと等について扱うこととされているところでございまして、こういった内容については時代を通じた普遍的な内容である、このように考えているところでございます。
○宮本(岳)委員 子供たちに市民道徳を培う教育は、何も教科にしなくても、日々の教育現場で、子供たちの間のトラブルの解決や学級での話し合いなどを通じてやられておりますし、それはもっと強めなければなりません。
では、教育勅語には、既に現場でやられている当たり前の市民道徳以外に何があるのかと問えば、「我カ皇祖皇宗、國ヲ肇ムルコト」「我カ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源、亦實ニ此ニ存ス。」とか「一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。」つまり、憲法や教育基本法とは到底両立し得ない内容が残るだけであります。このような教育勅語は、批判的に取り扱う以外に憲法と教育基本法に反しない使い方は決して存在しないということを指摘しておきたいと思います。
もう一度資料一を見ていただきたい。
森友学園の文書でありますけれども、教育勅語を暗唱させる幼稚園などの指摘を受け、社会問題化するに至った原因は、二〇〇六年に教育基本法が改正された際に新たに新設された我が国と郷土を愛する態度を養うとの教育目標を幼児教育の現場で生かそうとした前理事長の努力と工夫の結果だったと述べております。
では、今回の森友学園問題の原点がどこにあるか。それは、二〇一二年二月二十六日にさかのぼるわけであります。
資料三を見ていただきたい。
日本教育再生機構の広報誌「教育再生」の二〇一二年四月号であります。
二〇一二年二月二十六日に大阪で日本教育再生機構が主催した、教育再生民間タウンミーティング・イン大阪というものの記事であります。教育基本条例は戦後レジームからの脱却の大阪版だ、自民と維新が連携確認した二・二六大阪全容という見出しが躍っております。パネリスト三名が名を連ね、一人は日本教育再生機構の八木秀次理事長、そして残る二人が、野党時代の安倍晋三当時元首相と松井一郎大阪府知事であります。
安倍首相は、ここで、憲法と旧教育基本法、戦後長く続いてきた体制や精神を戦後レジームと呼び、そこからの脱却を力説しております。
第一次安倍内閣で教育基本法を改正し、伝統と文化を尊重し、郷土愛、愛国心を培うことを書き込んだ、しかし現場がなかなか動かない、そこで、維新の会の条例は、教育基本法改正と方向性が一致している、ある意味閉塞状態にあった教育現場に風穴をあけるという大きな意義があると絶賛し、大阪府の松井一郎知事と当時の安倍元首相はこのタウンミーティングで意気投合しております。
文部科学省に確認するんですが、ここで戦後レジームからの脱却の大阪版とまで言われている大阪府教育行政基本条例と大阪市教育行政基本条例は何年何月に制定されておりますか。
○白間政府参考人 お答え申し上げます。
大阪市教育行政基本条例につきましては平成二十四年五月、大阪府教育行政基本条例につきましては平成二十四年三月に制定されたものと承知しております。
○宮本(岳)委員 二〇一二年三月と五月、つまり二月二十六日の大阪の教育再生タウンミーティングで、松井一郎大阪府知事と安倍晋三現首相が意気投合した。その直後には、それまで反対していた大阪の自民党が賛成に転じ、安倍首相が改正教育基本法と方向が一致していると評価した大阪府、市の教育行政基本条例が制定されました。
この二〇一二年という時期は、前年に森友学園が私学の設置基準の緩和を大阪府の橋下徹知事に働きかけ、二〇一二年四月に、松井大阪府知事が森友学園でも小学校の設置認可の申請ができるように規制を緩和した時期とぴったり一致をしております。
さて、ここから森友学園籠池氏の教育勅語小学校づくりの野望が始まります。
近畿財務局が二〇一三年六月から九月に豊中市の国有地の売却先を公募すると、森友学園はこれに応募、本格的に小学校の設立に動き出します。
佐川理財局長は、二〇一四年六月三十日時点で既に近畿財務局の鞆田周一局長心得名の承諾書が豊中市長宛てに提出され、国有地の貸付契約締結についてのお墨つきを与えていた事実を私が示しても、二〇一五年二月十日の国有財産近畿地方審議会の以前には、いかなる予断を与えるような見通しも与えていないと言い張ってまいりました。
しかし、国会で籠池氏の証人喚問が行われた三月二十三日、大阪府議会本会議では、参考人として招致された大阪府私学審議会の梶田叡一会長が、大阪府で認可適当が出れば必ず森友側に土地が渡るようにしますという確約が国からあったという衝撃的な証言を行いました。
理財局長、この梶田会長の証言もうそだと否定するんですか。
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平成29年3月31日
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衆議院議員初鹿明博君提出教育勅語の根本理念に関する質問に対する答弁書
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衆議院議員初鹿明博君提出教育勅語の根本理念に関する質問に対する答弁書
一について
お尋ねの「決議の考えを現在も踏襲している」の意味するところが必ずしも明らかではないが、御指摘の「教育勅語等排除に関する決議」は、「教育勅語・・・その他の教育に関する諸詔勅・・・の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めない」ことを宣言したと承知しているが、教育に関する勅語については、昭和二十三年六月十九日の衆議院本会議において、森戸文部大臣(当時)が「教育勅語その他の詔勅に対しましては、教育上の指導原理たる性格を否定してきたのであります。このことは、新憲法の制定、それに基く教育基本法並びに学校教育法の制定によつて、法制上明確にされました」と答弁しているとおりであると考えている。
二について
お尋ねのような行為が憲法に違反するか否かについては、個別具体的な状況に即して判断されるべきものであり、一概にお答えすることは困難である。
三について
お尋ねの「禁止」の具体的に意味するところが必ずしも明らかではないが、学校において、教育に関する勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切であると考えているが、憲法や教育基本法(平成十八年法律第百二十号)等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではないと考えている。
四及び五について
御指摘の答弁は、稲田防衛大臣が政治家個人としての見解を述べたものであると承知しており、当該答弁に係るお尋ねについては、政府としてお答えする立場にない。
稲田防衛大臣については、本年三月二十七日の参議院予算委員会において、安倍内閣総理大臣が「今後ともしっかりと職責を全うしてもらいたい」と答弁しているところである。
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平成29年3月31日
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参議院
本会議
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○小西洋之君 最後に、教育勅語には日本社会が取り戻すべき精神があるなどと一貫して主張される稲田大臣は、かつての全ての日本兵が携帯を義務付けられた軍人手帳に同じく天皇への忠誠を第一義とする軍人勅諭とともに教育勅語が記載され、この個人の尊厳を否定する教育及び軍隊組織の下で多くの日本国民が無残な戦死を強いられた歴史を、自衛隊組織の長としてどのように考えているのでしょうか。発端となった塚本幼稚園における教育勅語暗唱に関する見解とともに明確に答弁をください。
(略)
○国務大臣(稲田朋美君)(続) 次に、軍人勅諭や教育勅語の下での教育や軍隊とさきの大戦及び塚本幼稚園における教育勅語暗唱に関する見解についてお尋ねがありました。
まず、教育勅語は防衛大臣の所管ではなく、お答えする立場にありませんが、教育勅語を戦前のように教育の唯一の根本理念として復活させるべきとは考えておりません。
また、軍人勅諭についても、教育勅語と同様に現行憲法の下で既にその効力を失っているものと承知しております。自衛官について申し上げれば、自衛隊法第五十二条に定める服務の本旨に基づき、使命の自覚、個人の充実、責任の遂行、規律の厳守、団結の強化などを基本とした教育がなされており、軍人勅諭を戦前のように復活させるべきとは考えておりません。
教育勅語や軍人勅諭の評価については歴史家に委ねたいと思いますが、さきの大戦についての私の認識は、平成二十七年八月十四日の内閣総理大臣談話で述べられたとおりであり、尊い犠牲の上に現在の平和があることをかみしめ、私は、防衛大臣として、我が国の平和と安全、国際社会の平和と安定に全力を尽くす所存です。
また、塚本幼稚園を含め、学校等における具体的な教育方法については、防衛大臣の所管ではなく、お答えは差し控えたいと思います。
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平成29年3月23日
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第193回国会
参議院
文教科学委員会
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○斎藤嘉隆君 審議会の議論の在り方については、今後、府でいろんな形で調査がされて究明がされていくんだろうと期待をしています。その結果を受けて文科省としても、大本のつかさどっている省庁でありますから、どこにどのような課題があってこのような問題が生じたのかということのしっかりした分析を是非お願いをしたいというふうに思います。
もう一点、今日の証人喚問でも御本人が、証人自らがおっしゃっていました、幼稚園での行き過ぎた指導があったと、こういうことを言われていました。恐らく教育勅語の唱和とかそういったことをおっしゃっているのではないかなというふうに思います。この点についてもちょっと確認をさせていただきたいと思います。森友学園のこの塚本幼稚園で教育勅語の文言が園内に掲げられていて園児がこれを唱和をしていると、こういう映像が全国的に報道されて国民は多くの方が衝撃を受けたということだと思います。このことをちょっと行き過ぎたというように表現をされたのではないかなと思っていますけれども。
この教育勅語の取扱いについて、政府としての正式な現段階の見解をお伺いをしたいんです。稲田大臣もこの教育勅語について擁護をする答弁をして、様々な話題になっています。
四八年の衆議院本会議では排除に関する決議、同じ日の参議院の本会議では失効確認の決議がなされています。文面の一部を読むとこういう文言があります。衆議院の決議では、教育勅語などが今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかのごとく誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったため。また、参議院の決議では、教育勅語等が、あるいは従来のごとき効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、我らは特に、それらが効力を失っている事実を明確にする。そして最後に、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力を致すべきことを期すると。こういうような決議の中身になっています。
この決議を受けて、文部科学省、当時は文部省だと思いますが、としてどのような対応をされたのでしょうか。
○国務大臣(松野博一君) 御指摘の昭和二十三年の次官通達でありますけれども、衆議院の教育勅語等排除に関する決議及び参議院の教育勅語等の失効確認に関する決議を受けて、その趣旨を徹底し、遺憾のないよう万全を期すこと、本省から交付をした教育に関する勅語等の謄本で学校等において保管中のものを本省に返還することなどを都道府県に通達をしたものであります。
教育勅語の取扱いについては現在も同じであり、日本国憲法及び教育基本法の制定等をもって法制上の効力が喪失をしたものと考えております。
○斎藤嘉隆君 そのような次官通達が出されていて、今の御答弁でもあったように、効力を有していると、こういうことだと思います。
それでは、学校教育においてこの教育勅語そのものを扱うことについて、これについてはどのような御見解をお持ちでしょうか。
○国務大臣(松野博一君) 教育勅語につきましては、委員の方からお話もあった戦後の様々な諸改革の中におきまして、これを教育の唯一の根本とすることが禁止をされるとともに、日本国憲法及び教育基本法の制定等をもって法制上の効力が喪失をしております。このため、学校現場において教育勅語を活用することとした場合においては、教育勅語を我が国の教育の唯一の根本とすることなく、憲法や教育基本法、幼稚園教育要領等に反しないような適切な配慮が不可欠と考えております。
実際の個々の教育現場においてどのような教育を行うかは一義的にはそれぞれの教育現場、学校、園で創意工夫しながら考えるべきものであり、仮にそこで行われる教育活動が教育基本法や幼稚園教育要領等に照らし不適切なものであるとすれば、教育委員会や私立学校の所管庁である都道府県において適切に対応すべきものと考えております。
○斎藤嘉隆君 私は、この教育勅語の歴史的なこれまでの経緯とか思想的な背景とか、そういったものに焦点を当てて議論する気はないんです。
私は、教育のあるべき姿について申し上げているのであって、幼稚園児に、発達段階上ですね、恐らく彼らがあそこに書いてある文言を唱和をしても、唱和をしても、何を意味しているのか多分分からない、分からないと思います。分かるはずがありません。発達段階上、極めて不適切だというふうに思います。望ましい教育だとは到底思えないんですね。
だから、このことについてはしっかりしたやっぱり見解を文科省として私は持つべきだと思います。いろんな段階の子供たちがいて、それぞれの段階の子供たちにしかるべきこと、その段階に合わせた中身のことを分かるように教えるのが教育の本質だと思います。あれは教育ではない、教育ではないし、教育現場で行うことではないと思います。現行も、また改訂をされる学習指導要領や幼稚園の教育要領も、そうした考えの下にあると思うんです。訳も分からず、まあいろんな学校長なりの判断で、その思いを具現化をするために子供たちに暗唱させるような、そういう行為は教育的ではないので、こういったことについてはやはりしかるべき対応をしていくべきだというふうにも思うし、しかるべき対応というのは文科省としての明確な見解をこのことについてはお示しをするべきだと。私は不適切だと思います。
これ以上御質問はさせていただきませんけれども、そのことを強く申し上げたいというふうに思います。
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平成29年3月23日
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第193回国会
参議院
財政金融委員会
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○古賀之士君 民進党・新緑風会の古賀之士でございます。
森友問題で、本日の午前中、まず参議院の予算委員会で籠池理事長の証人喚問が行われました。そして、一部報道によりますと、明日、当時の近畿財務局長とそれから理財局長が参考人招致されるという報道もなされているようでございますが、そこでこの森友問題についてまずお尋ねをいたします。
資料の、お手元の一を御覧いただきたいと思います。文部科学省としての、教育勅語に関してどう捉えているか、お尋ねをさせていただきます。
既に御承知の方も多いかと思いますが、この教育勅語に関しましては、昭和二十三年六月十九日、衆議院の本会議におきまして、教育勅語等排除に関する決議として、憲法九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議をもって、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言すると。また、同日、参議院の本会議でも同様の決議が行われております。
ただ、塚本幼稚園のホームページを見ますと、少なくとも、私、本日の朝確認をしていますが、現段階でも、教育内容としまして、ホームページには、毎朝の朝礼において教育勅語の朗唱を行うと記されております。さらに、教育の根底は下記の十二の徳目を根幹とした上で、十二の徳目の基となっているものとして教育勅語が掲載されております。
幼稚園の教育において教育勅語が指導原理となっているとも読めますが、この点について文部科学省にお尋ねをいたします。問題はないのでしょうか。
○政府参考人(藤江陽子君) お答え申し上げます。
委員御指摘のように、昭和二十三年の衆議院、参議院の決議にもございますとおり、教育勅語につきましては、戦後の諸改革の中で、これを教育の唯一の根本として取り扱うことが禁止されるとともに、日本国憲法及び教育基本法の制定等をもって法制上の効力が喪失しているところでございます。このため、学校現場において教育勅語を活用することとした場合におきましては、教育勅語を我が国の教育の唯一の根本とすることなく、憲法や教育基本法等に反しないような適切な配慮が不可欠でございます。
実際に個々の私立幼稚園においてどのような教育を行うかは、一義的にはそれぞれの園で創意工夫をしながら考えるべきものでございますけれども、仮にそこで行われる教育活動が教育基本法等に照らして不適切なものであるとすれば、所轄庁である都道府県、この場合は大阪府となりますけれども、において適切に対応すべきものと考えております。
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平成29年3月21日
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第193回国会
参議院
外交防衛委員会
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○井上哲士君 五年前から行っていてですよ、今になってそういうことは分かりませんでしたというようなことがあるのかということなんですね。
撤収を決めたけれども五月末までは続けるというと、その間、駆け付け警護の任務に当たることになるわけで、仮にその任務が行われたら、銃を撃つ相手が政府軍になるんじゃないか、このことの私は現実の危惧が浮き彫りになったと思うわけで、そうなればまさに憲法違反の戦闘行為になるわけで、区切りが付いたなどとごまかさずに、治安悪化を認めて直ちに撤収させるべきだと申し上げておきたいと思います。
その上で、先日の予算委員会での稲田防衛大臣の教育勅語の発言についてお聞きいたします。
大臣は教育勅語についての見解を問われて、教育勅語の精神は今も目指すべきだと思っている、教育勅語自体が全く誤っているというのは私は違うと思いますと答弁をされました。教育勅語には親孝行とか兄弟仲よくするなど、自然に見えることも徳目として並べておりますけれども、それらを全て天皇への命懸けの忠義に結び付けたのが特徴でありまして、その結論は、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と。つまり、重大事態があれば天皇のために命を投げ出せと、こういうことを子供たちに徹底して教え込むものでありました。
大臣は、教育勅語自体が全く誤っているというのは違うと言うわけですが、そうであれば、この「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」云々、この部分はいい徳目なのか、それとも誤っている徳目なのか、どちらでしょうか。
○国務大臣(稲田朋美君) 私は、教育勅語に関してお答えする所管ではないので、差し控えたいと思いますけれども、私が予算委員会で申し上げましたのは、教育勅語の中に、今、親孝行とか兄弟仲よく、夫婦仲よく、友達を信じて、そして世界から尊敬される国を目指そうという、今にも生きているそういう価値があると、そういう意味において全てが間違っているわけではないということを申し上げた次第でございます。
いずれにせよ、教育勅語を戦前のように教育の唯一の根本理念として復活させるべきとは全く考えておりません。
○井上哲士君 全てが間違っているわけではないと、そう言った上で、親孝行や友達を大切にするのが大切と述べられているんです。
ですから、この「一旦緩急アレハ」という部分については間違っていると思っていらっしゃるのか、そうでないと思っていらっしゃるのか、大臣の予算委員会の答弁について聞いているんですから、お答えください。
○国務大臣(稲田朋美君) 私は、その教育勅語の中の不易と流行という意味において、今に通用する普遍的な価値というものが存在するということを述べたということでございます。
○井上哲士君 「ウイル」という雑誌の二〇〇六年十月号の討論会で、大臣は、最後の一行も含めて教育勅語の精神を取り戻すべきと述べられているわけですね。ということは、この「一旦緩急アレハ」云々というところも取り戻すべき中身だということでよろしいですか。
○国務大臣(稲田朋美君) もちろん、その当該対談が掲載されたのは二〇〇六年十月、私がまさしく政治家として、一年議員として、しかも同僚の議員と対談をした長い対談の文脈の中でそのような一節があったということでございますが、もうそれから既に十年以上が経過しており、その間、様々な方々の御意見も聞き、自分なりに勉強もして、必ずしも当時と同じ考えをしているわけではありません。私は、今、教育勅語の中で、今も普遍的な価値として、夫婦仲よくとか兄弟仲よく、そして友達を大切にする、信義を重んじる、そして何よりも世界から尊敬される国を目指そうというところはしっかりと残っているということを申し上げたということでございます。
○井上哲士君 ですから、この「一旦緩急アレハ」というところはどうなんですかということを聞いているわけですが、まともなお答えがありません。
では、この教育勅語と大臣の行動に関してお聞きするんですけど、教育勅語で重大な事態があれば天皇のために命投げ出せと教え込まれた子供たちが、靖国で会おうといって戦争にかき立てられました。大臣は、昨年末、総理とともに真珠湾を訪問されました。総理はそのときに、戦後、不戦の誓いを堅持してきたと、こういう演説を真珠湾で行われたわけですね。ところが、稲田大臣はその直後に靖国神社を参拝をされました。総理の演説である不戦の誓いにこれ反するんじゃないでしょうか。
○国務大臣(稲田朋美君) 私は、靖国を参拝した後に申し上げましたように、いかなる歴史観に立とうとも、自分の国を守るために出撃した方々に対して感謝と敬意とそして追悼の誠を表するという一国民としての心の問題として参拝をしたということでございます。
○井上哲士君 防衛大臣として記帳されているんですね。
そして、大臣は、やはり「ウイル」という雑誌の二〇〇六年九月号でこう言われています。靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、祖国に何かあれば後に続きますと誓うところでないといけないんですと、こうはっきりと述べられているんですよ。不戦の誓いという総理の演説とも、不戦を誓った憲法とも、これは相入れないんじゃないですか。
○国務大臣(稲田朋美君) 何度も申し上げておりますように、その対談をしてから十年以上たっております。全く同じ考えをしているわけではありません。
また、私は、国益のために命懸けで職務に当たるということ、そして一般的な意味において自分の国を命懸けで守っていくということ、そういった気概を持つということの大切さということは今も維持をしております。
その上で、靖国参拝につきましては、先ほど申し上げましたように、いかなる歴史観に立とうとも、自分の国のために命をささげた方々に感謝と敬意と追悼の誠をささげるということでございます。
○井上哲士君 では、この雑誌で述べた靖国神社というのは不戦の誓いをするところではないんだと、この発言はもう取り消されるということでよろしいですか。
○国務大臣(稲田朋美君) 今私は防衛大臣としてこの場で答弁をいたしております。十年以上前の一政治家としての発言、しかもその中の一行ですね、いろんな文脈の中で、また長い対談の中で申し上げたことを取り消すとか取り消せないとかという問題ではないというふうに思っております。
○井上哲士君 あなたが靖国神社に防衛大臣として参拝をしているから私は聞いているんですよ。そんな昔の話じゃないんです。今現在問われている問題なんですね。
教育勅語が憲法と相入れないということはもう国会では決着済みであります。一九四八年六月十九日に衆議院の本会議で教育勅語等排除に関する決議、参議院本会議では教育勅語等の失効確認に関する決議がそれぞれ採決をされております。
衆議院の決議では、教育勅語などの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損ない、かつ国際信義に対して疑点を残すものとなる、よって憲法九十八条の本旨に従い、衆議院は院議をもってこれらの詔勅を排除すると、こうしているんですね。
憲法九十八条、もう当然御存じのとおり、この憲法は国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為全部又は一部はその効力を有しない。つまり、憲法九十八条の本旨に従って廃止をしたというのは、この教育勅語は憲法に反するというのが衆議院の決議なんです。この衆議院の決議、大臣はお認めになりますか。
○国務大臣(稲田朋美君) 教育勅語についての解釈は防衛大臣の所管ではなく、その憲法上の解釈についてお答えすることは差し控えたいと思いますけれども、教育勅語は、戦後の諸改革の中で、これを教育の唯一の根本として神格化して取り扱うことなどが禁止をされて、そして憲法や教育基本法の制定等によりその法制上の効力を失効したものであるというふうに承知をいたしております。
その上で申し上げれば、私はあくまでも、教育勅語の中にある親孝行とか、兄弟仲よく、友達に対して信義を持って接する、そして世界から尊敬される国を目指すといった点は今も普遍的な価値として生きているということでございます。教育勅語を戦前のように教育の唯一の根本理念として復活させるべきということを考えているわけではございません。
○井上哲士君 このときの結語は、教育勅語の中にはいいこともあるというのも間違いだということでちゃんと報告がされているんです。なぜ教育勅語が憲法に反していることを認めないのか。そこには大臣の驚くべき憲法観があります。
大臣は、二〇一二年の四月三十日に靖国神社で開催された谷口雅春先生を学ぶ会の行事で講演をして、こう述べております。ユーチューブでも今も見れます。憲法をなめるように勉強している牛乳瓶の底の眼鏡みたいなのを掛けた裁判官がいっぱいいるんですよ。視野狭窄になってしまって、憲法は正しいと信じている。大体弁護士とか検察官とか、特に弁護士会ってとても左翼的な集団なんですね。なぜかというと、今の憲法が正しいと信じている憲法教という新興宗教がはびこっているんですねと、驚くべき発言をされております。
裁判官や検察官が憲法に基づいて職務を行うことをやゆをする。憲法が正しいと信じて司法の職務に当たる者が視野狭窄なんですか、新興宗教なんですか。そんなことを言ったらもう司法は成り立たないですよ。この発言されたことを認めますね。
○国務大臣(稲田朋美君) それは、今、二〇一二年ですか、野党時代の一議員の講演の一節を取られているんだと思います。
私は今、閣僚として憲法を尊重し、擁護することは憲法上の義務であり、当然であるという立場に立って職務に邁進しているところでございます。
○井上哲士君 ですから、今おっしゃいました、憲法尊重擁護義務を持つ大臣だと。そういう大臣が、憲法を正しいと信じることは視野狭窄で新興宗教だ、そんな裁判官や弁護士や検察官がいっぱいいる、こんな発言をしている人自身が大臣になる資格がそもそもないんですよ。これを撤回、まずしていただきたいと思いますが、いかがですか。
○国務大臣(稲田朋美君) 私は何度も言っておりますように、日本は法治国家です。そして、憲法遵守義務がございます。そして、私はその講演の中で、今ユーチューブで見られるとおっしゃっておられますので、その中の一行、一行というか、そういうことを申し上げたんでしょうけれども、その一政治家としての発言を取り消す、取り消さないということではなくて、私は法律家でもありますし、憲法遵守義務があること、そして日本が法治国家で現行憲法を基本に全て戦後の行政も行われていること、それはしっかりと認めております。
したがいまして、閣僚が憲法を尊重し擁護することは憲法上の義務であり、当然であるというふうに考えております。
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平成29年3月17日
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衆議院議員逢坂誠二君提出稲田大臣の「教育勅語の精神は取り戻すべき」発言に関する質問に対する答弁書
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衆議院議員逢坂誠二君提出稲田大臣の「教育勅語の精神は取り戻すべき」発言に関する質問に対する答弁書
一から三までについて
御指摘の「本件発言」に係るお尋ねは、稲田朋美衆議院議員の国務大臣就任以前の政治家個人としての活動に関するものであり、また、御指摘の「今回発言」については、稲田国務大臣が政治家個人としての見解を述べたものであると承知しており、政府としてお答えする立場にない。
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平成29年3月14日
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松野博一文部科学大臣記者会見
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記者)
最近国会でも議論になっております教育勅語に関して、文科省の審議官なども国会答弁の中で、今日でも通用するような普遍的な価値のあるというような、部分的に肯定するような答弁というものが閣僚も含めてなされています。これについて、松野大臣としてはどのようにお考えか、同じようなお考えなのか、お聞かせ願えますでしょうか。
大臣)
教育勅語は、日本国憲法及び教育基本法の制定等をもって、法制上の効力を喪失しております。文部科学省としては、学校現場において教育勅語を活用することとした場合には、憲法や教育基本法等に反しないような適切な配慮が必要であると考えております。
記者)
関連しまして、適切な配慮、反しないようなという御指摘ですけれども、具体的にはどのようなケースを想定されていますでしょうか。
大臣)
これは政治事項に関する中立等の話もありますし、まず何よりも憲法で規定されている精神でありますから、教育基本法の内容等に反する部分に関しての指導方法ということであろうかと思います。しかし、具体的には、私も繰り返しお話させていただいておりますけれども、個々の事案がそれに該当するかどうかは、所轄庁によって判断、指導されるものだと考えております。
記者)
国会答弁での大臣官房審議官の、今日でも通用するような価値があるというような答弁については、部分的に認めるような答弁については、適切であるというお考えでしょうか。
大臣)
具体的にどの部分を指して、その審議官が話をされているのか、ちょっと今、私が承知をしていないのですが。
記者)
藤江大臣官房審議官が「教育勅語の中には、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれ、適切な配慮の下に活用していくことは差し支えないと考えている」という趣旨の答弁をされておられます。稲田防衛相も「全く誤っているというのは、違っていると思っている」というような答弁をされていますが、こういった答弁については、どのようにお考えでしょうか。
大臣)
まず教育勅語を、先ほど申し上げたとおり、憲法や教育基本法に反しないように配慮をもって授業に活用するということは、これは一義的にはその学校の教育方針、教育内容に関するものでありますし、また、教師の皆さんに一定の裁量が認められるのは当然であろうかと思います。
その前後の関係で、審議官の発言がどの部分を指しているかというのは、ちょっと明らかでないので、私の方でお話がしづらいのですけれども、具体的にはどういった部分を指しての話をしているのですか。
記者)
教育勅語の使われ方、教育現場での使われ方について、具体的には森友学園の幼稚園でのケースに関連する議論であったかと思うのですが、その中で、教育勅語が教育現場で使われる、教育方針の中に活かされるということに関連して、見解を求められた際の答弁であったと。
大臣)
まず森友学園とお名前が出ましたけれども、特定の事案を個別にあてはめるというのはやっておりませんので、その判断は、所轄庁である大阪府によってなされるものと思いますが、一般論として、例えばおそらく今までの答弁の経緯からいうと、家庭とか親子関係とかそういったものに関してのことかと思いますが、そういった内容は、幼稚園の教育要領、また学習指導要領の中においても書かれていることでありますから、そういったところを指して話をしているのではないかと思います。
記者)
教育勅語の中の徳目の部分だけを部分的に取り出して、そこには価値があって、教育に適切に活かしていくことには問題はないというお考えなのでしょうか。
大臣)
先ほど申し上げましたとおり、教育勅語を授業に活用することは、適切な配慮の下であれば問題ないと思います。それは一般論から言って、その活用の仕方、これはもう教師の教え方の問題であると思いますし、それは積極的に評価する、消極的に評価する、その項目によってそれぞれ違うものであろうかと思いますので、個々どれをもっていい、どれをもって悪いということは言及しませんが、いずれにせよ、その教えている内容が憲法や教育基本法に反するということであれば、それは所轄庁の中で適切な指導がなされるものと考えております。
記者)
部分的に取り出しても、基本的には天皇中心の国家、いざという時にはそのために命を捧げるというような趣旨が教育勅語の趣旨かと思うのですが、そういう趣旨の中で書かれている徳目を、徳目自体の価値を認めても、それだけ取り出して価値を認めても、それは教育勅語全体の精神を肯定するようなことに繋がって不適切だというような指摘もあるのですが、それでも部分的に取り出して、適切に教育現場で活かせば、それは問題ないというようなお考えなのでしょうか。
大臣)
全体としての評価は、これはそれぞれおありだと思いますが、文部科学省としては、これも繰り返しになって恐縮でありますが、憲法や教育基本法に反しないような配慮があって、教材として教育勅語を用いることは、そのことをもって問題とはしないという見解です。
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平成29年3月7日
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衆議院議員逢坂誠二君提出教育基本法の理念と教育勅語の整合性に関する質問に対する答弁書
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衆議院議員逢坂誠二君提出教育基本法の理念と教育勅語の整合性に関する質問に対する答弁書
一から三までについて
教育に関する勅語については、御指摘の「教育勅語等排除に関する決議」において、「詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである」と決議されたと承知している。
また、教育に関する勅語については、日本国憲法及び旧教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の制定等をもって、法制上の効力が喪失したと考えている。
四から九までについて
お尋ねのような行為が教育基本法(平成十八年法律第百二十号)や学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)に違反するか否かについては、個別具体的な状況に即して判断されるべきものであり、一概にお答えすることは困難である。
その上で、一般論として、仮に、同法第一条の「幼稚園」又は「小学校」(以下これらを合わせて「学校」という。)において不適切な教育が行われている場合は、まずは、当該学校の設置者である市町村又は学校法人等において、必要に応じ、当該学校に対して適切な対応をとり、都道府県においても、必要に応じ、当該学校又は当該学校の設置者である市町村若しくは学校法人等に対して適切な対応をとることになる。また、文部科学省においては、必要に応じ、当該学校の設置者である市町村又は当該都道府県に対して適切な対応をとることになる。
十について
学校教育法第二十五条の規定に基づき文部科学大臣が定める幼稚園教育要領(平成二十年文部科学省告示第二十六号)において、お尋ねの「教育勅語を教材として用いることの是非」について定めた規定は存在しない。
また、御指摘の「かかる条文」の意味するところが必ずしも明らかでないが、お尋ねの「日本国憲法で否定され、かつ、本決議で排除が求められるような勅語を教育に活用すること」が学校教育法等の法令に違反するか否かについては、個別具体的な状況に即して判断されるべきものである。
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平成29年2月27日
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教育基本法の理念と教育勅語の整合性に関する質問主意書
逢坂誠二
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教育基本法の理念と教育勅語の整合性に関する質問主意書
教育基本法では、「日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うもので」、「この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する」と謳っており、「日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立」することの必要性が示されている。
教育勅語は、明治二十三年、明治天皇が教育に関して与えた勅語であり、大日本帝国における政府の教育方針を示す文書と位置づけられる。
これらの整合性に関して疑義があるので、以下質問する。
一 教育勅語は現在法的効力を持たず、衆議院の昭和二十三年六月十九日の「教育勅語等排除に関する決議」(「本決議」という。)で、「これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである」と確認されているという理解でよいか。
二 教育勅語は、日本国憲法第九十八条でいう「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」に該当し、無効であるという理解でよいか。
三 本決議は、「詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八条の本旨に従」って、政府に教育勅語の排除を義務付けているという理解でよいか。
四 教育勅語を学校教育法上の学校で、教育のために用いることは、教育基本法でいう「日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立」などに反するのではないか。
五 教育勅語を学校教育法上の幼稚園で教材として繰り返し暗唱させ、さらには外来の見学者などにもその様子を見せることは、学校教育法第二十二条でいう「幼稚園は、義務教育及びその後の教育の基礎を培うものとして、幼児を保育し、幼児の健やかな成長のために適当な環境を与えて、その心身の発達を助長することを目的とする」ことに反するのではないか。
六 教育勅語を学校教育法上の幼稚園で教材として繰り返し暗唱させ、さらには外来の見学者などにもその様子を見せることは、教育基本法第二条第五号でいう「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」に反するのではないか。
七 学校教育法上の学校の運動会で、現職の首相の名前を連呼し、「何某首相がんばれ」とその学校側が児童に言わしめる行為は、教育基本法第十四条第二項の「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」の規定で禁止されているのではないか。
八 学校教育法上の学校の運動会で、当時の内閣がその成立に命運を賭けていた法案に関して、「安保法制、国会通過、良かったです」とその学校側が児童に言わしめる行為は、教育基本法第十四条第二項の「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」の規定で禁止されている行為に該当しないのか。
九 五から八に関連して、学校教育法上の学校で、かかる不適切な教育が行われている場合、政府は何らかの是正のための指導を行うべきではないか。見解を示されたい。
十 学校教育法第二十五条でいう「幼稚園の教育課程その他の保育内容に関する事項は、第二十二条及び第二十三条の規定に従い、文部科学大臣が定める」の中に、教育勅語を教材として用いることの是非は規定されているのか。あるいは日本国憲法で否定され、かつ、本決議で排除が求められるような勅語を教育に活用することの是非は、かかる条文の規定から導き出されないのか。政府の見解を示されたい。
右質問する。
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昭和58年5月11日
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第98国会
参議院
決算委員会
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○本岡昭次君 まず、教育勅語の取り扱いについて御質問いたします。
二月十一日の建国記念日に学校行事を行って、そこで学校長が教育勅語を読んでいる私立高校があることを前々回の四月二十五日の決算委員会で私は指摘をしておきました。文部省はそのとき、わからないということでした。しかし、その後の調査の結果どうでしたか、お伺いします。
○政府委員(鈴木勲君) その後御指摘がございまして調べたわけでございますが、島根県にございます私立の松江日本大学附属高等学校におきまして、建国記念の日の学校行事といたしまして教育勅語を取り上げていたと、そういう事実はわかったわけでございます。
○本岡昭次君 いつごろからそのように式を学校行事として行って、教育勅語を読んでいましたか。
○政府委員(鈴木勲君) これは島根県の私学所管課の総務部等を通じまして調べたわけでございますが、昭和三十七年ごろからというふうに報告を受けております。
○本岡昭次君 昭和三十年代の後半からずっと二十年間、教育勅語が学校行事の中で読まれているということについて、島根県の知事部局あるいは教育委員会として何らそれに対する指導はなかったんですか、あったんですか。
○政府委員(鈴木勲君) 島根県の総務部の総務課が所管でございますけれども、従来から私学の教育内容につきましては、私学の自主性の尊重という観点から、教育内容については別段の指導は行ってきていないということでございまして、年一回私学を呼びまして当該学校のその年度におきます組織、運営等につきましてヒアリングを行うことはやっているわけでございますけれども、その際基本的な教育方針等につきまして説明を受けてはいるということでございますけれども、具体的な教育の内容について個々に指導をするということは行っていないというふうに聞いております。
○本岡昭次君 教育勅語を読まれているということは知っていたのかいなかったのか。どうですか。
○政府委員(鈴木勲君) その辺のところは、私どもが今回島根県に聞きましたところ、島根県におきましても調べて、そのことが三十七年あたりから行っているということがわかったようでございまして、前から知っていたかどうかということは不明でございます。
○本岡昭次君 昭和二十一年十月八日並びに昭和二十三年六月二十五日の教育勅語等の取り扱いについての文部次官の通達があることは御存じだと思います。その通達には「式日等に於て従来教育勅語を奉読することを慣例としたが、今後は之を読まないことにする」とあります。これは現在も変わっていないと思いますが、いかがですか。
○政府委員(鈴木勲君) そのとおりでございます。
○本岡昭次君 そのことは私立学校にも及ぶのか及ばないのか。
○政府委員(鈴木勲君) これは二十一年のときの趣旨は地方長官あてでございますから、当時の地方長官が所管しております公立の高等学校以下の学校、当時といたしますと中等学校になるかと思いますけれども、中等学校以下の学校にも及ぶものというふうに考えます。
○本岡昭次君 文部大臣、現在お聞きのように、昭和二十一年及び二十三年の教育勅語に関する文部次官通達、さらには憲法、教育基本法、または国会の決議として失効決議がなされております。こうした措置をなされた教育勅語が、堂々と二十年間も私学とはいえ公教育の場で行われていたと。しかもそれは、校長が単に読むだけでなく、校長の朗読に合わせて生徒が立って「朕惟フニ我カ皇祖皇宗」とずっと一諸に読んでいる。私も教育勅語の時代に過ごしましたけれども、一諸に校長と朗読したというようなことはないわけで、そういうことが二十年間行われていたんですね。文部大臣、これをどのような措置を講じるおつもりですか。
○国務大臣(瀬戸山三男君) 教育勅語の扱いについては、本岡さん御存じのとおり、いまも初中局長からも御説明申し上げましたが、昭和二十一年及び二十三年、自後教育勅語を朗読しないこと、学校教育において使わないこと、また衆参両議院でもそういう趣旨のことを決議されております。でありますから、そういうことで今日まで指導してきておるわけでございますが、たまたまいま御説明申し上げましたように、松江市にある私立の高等学校でそういう事実があったということを私も最近聞きまして、率直に言って遺憾なことであると思っております。教育勅語そのものの内容については今日でも人間の行いとして、道として通用する部分もありますけれども、教育勅語の成り立ち及び性格、そういう観点からいって、現在の憲法、教育基本法のもとでは不適切である、こういうことが方針が決まっておるわけでございますから、そこで文部省といたしましては、その事態を承知いたしまして、いま初中局長から申し上げましたように、これはいわゆる島根県の認可学校でございますから、島根県を通じてそういうことのないように指導をしてくれと、こういうことをいま勧告しておるわけでございまして、まだその結果については詳細は報告が来ておりません。
○本岡昭次君 再度確認をいたしますが、いまの文部大臣の御答弁は、島根県知事に対して、松江日大高校が行っている建国記念日の学校行事の中で、教育勅語を読むということについてはこれを改善せよ、是正せよという改善勧告というふうなものを行った、あるいは行う用意をしていると、こういう答弁と考えていいんですか。
○国務大臣(瀬戸山三男君) 御存じのとおりに、私学については自主性をとうとんでやっておりますから、こちらがこうせい、ああせいというわけにはまいらないわけでございますが、島根県を通じて、島根県から、いま申し上げましたように改善の勧告、そういうことのないように勧告をしてもらっておると、こういうことでございます。
○本岡昭次君 いまの松江日大高校ということを、私はたまたまテレビで見て非常に驚いて、日本は狭いようでも広い、こういうことがいまだに行われておるところがあるんだということで驚いたんですね。しかし、その後いろいろ話を聞きますと、徳育、訓育、そうしたものの柱になるべきことは、先ほど文部大臣も、内容については問題がないではないかという意味の御発言もありましたように、教育勅語を持ってきて、徳育、訓育、道徳の柱にすることが大切ではないかというふうな問題があちこちで論議されて、特に私学を中心にして教育勅語を学校の教育の内容として持ち込もうとする動きがあります。私はこれは絶対に認めてはならないことだと、こう考えます。
そこで、文部省にお願いしたいんですが、この問題を一つの契機として、全国の私学に式日に教育勅語を読むというふうな事実があるのかないのか、あるいはまた教育勅語を教育活動の一環として使っているという事実はあるかないかということを、都道府県知事あるいはまた私立大学等に対しても調査をお願いしたい、またこれは文部省の責任でもあろうと、こう思うんですが、いかがですか。
○政府委員(鈴木勲君) 松江市の例をお挙げになりましたわけでございますが、私どもとしてはそのような異例なことがほかの学校におきましてもあるというふうには考えておりませんので、これを契機に調査をするというところまでは考えておらないわけでございますけれども、いろんな機会にそのような指導はしてまいりたいというふうに考えております。
○本岡昭次君 昭和二十一年と二十三年に文部省の次官通達が出た。それを知らない学校の校長、経営者がいることは事実ですね、それ以後設立された私学はたくさんあるんですから。だから、改めて教育勅語の取り扱いはこのようになっているんだということを、はっきり文部省として指導しなければわからないんじゃないですか。この松江日大の経営者なりあるいはまた校長が、知っていてやったのか知らなくてやったのかという問題についても、ある意味では三十年代の後半に設立された学校であれば、そういうことを知らなかったということも言えるわけで、改めてこの教育勅語の取り扱いについて、昭和二十一年、二十三年当時のその文部省の次官通達というものの意味を、それぞれの地方自治体を通して私学にいろんな形で連絡をすべきだ、通知すべきだと思うんですが、いかがですか。
○政府委員(鈴木勲君) あくまでもこれは、教育勅語の扱いにつきましては、学校という公の教育を行う場におきまして教育活動の中で取り扱ってはならないということは、学校を経営する者はわかっているはずのものでございますし、その点が確かに不徹底であるということは松江の例であろうと思いますけれども、必ずしもこのような例が多いというふうには思いませんので、私どもとしては、これを契機にいろんな形の会議等の指導は徹底いたしたいと思いますけれども、一律の調査なり通達によってこれを行うというところまでは、いまのところ考えておらないということを再び申し上げさせていただきます。
○本岡昭次君 いまの答弁、私納得できませんが、これだけにかかっているわけにいきませんので、きょうの段階ではいまの答弁で一応私はこの質問を終わりますが、さらに検討をしていただきたいということを要望を申し上げておきたいと思いますし、文部省もいろんな広報活動をやっているんですから、それを通して間違いのないようにやっていただきたいということを最後に要望しておきます。
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昭和28年6月30日
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第16国会
衆議院
文部委員会
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○高津委員 私は、前回六月二十六日に開かれた衆議院文部委員会において、大達文部大臣が教育勅語に関する世耕弘一委員の質問に対して行われた答弁の内容は、実に重大な問題を含んでいると思うのであります。そこに現れた思想は、現在の憲法以前のものであるのみならず、憲法に背反しているものである。それはまた教育基本法とまつたく相反するものである。もちろん戦後今日まで、歴代の日本政府並びに文部省のとり来たつたところの教育の基本方針と教育行政とを、根本からくつがえすところの内容を含んでおるものである。ここにこれをいずれの議事よりも先んじて緊急質問として発言する次第であります。
かくのごとく、事ははなはだ重要下ありますので、私は当日の速記録の写しを取り寄せて参つております。まず初めに世耕委員の質問と大臣の答弁とを読み上げるとにより、論点の所在を動かないようにし、明らかにして兼いて、質問を進めよと思います。
世耕弘一君の質問「それからもう一つは、教育勅語の問題です。勅語という言葉はどうかと思うけれども、教育訓話くらいは文部大臣出していいだろうと思う。「朕惟フニ」の「朕」はいらないかもしらぬが、「惟フニ」という言葉で表わしたらいい。私は教育勅語の内容を検討して、現在の民主政治に反するようなことは一点もないと思う。ただ用語上に適当じやないところがあれば、それだけ訂正すればいい。こういう点についてももつと大胆卒直に大臣の御批判なり御所見が伺えれば、われわれ非常に心強いと思いますが、いかがでありますか。」文部大臣の答弁「教育勅語の問題でありますが、仰せの通り、」と言つて、ちつともこれを拒んでおらぬですよ。「仰せの通り、教育勅語は、わが国の民族伝統の道徳を勅語の形式をもつて仰せられた。また勅語のうちにもこのことがうたつてあるのであります。私が先ほども申しましたように、民族の道義、国民の道徳というものは、そう無から有が生れるように一旦一夕にしてでき上るものではないと思う。どうしても民族の伝統の道義、伝統の道徳というものが基礎になつて、それが新しい時代に適応されるようになつて行くところに、新しい道徳がある、こう考えているのであります。従つて教育勅語の内容をなしております徳目の中につきましては、これはわが民族として最も大切にその徳目を保存して、これを履行して行かなきやならぬものだと思つております。」
そこで第一にお尋ねいたしますが、あの御答弁は、世耕委員の古き古き思想、しかしなかなかの雄弁につり込まれて、思わずしらずふらふらとしやべられたものとは私には考えられません。当日の委員会では、大臣が文部大臣の最初の施政方針演説として、緊張して四大政策を発表され、その一つに道義の高揚というのがあつたところから、道徳の内容いかん、道徳の徳目いかんという質問が現われ、世耕君の「教育勅語の内容を検討して現代の民主政治に反するようなことは一点もない」という驚くべき発言があつたのに対し、大臣は少しもそれに反対せず、それを肯定されたのであります。教育の基本方策の一つは道義の高揚であると特に言われる以上、それは大臣にとつてはきわめて重要なる政策であるに違いありません。そうであるならば、あの答弁こそは、大臣の信念であり、持論であると思うが、いかん。それは大臣の信念、持論であるかどうかという点を明白に御答弁願います。つられて言つたのじやない、自分の信念であるかどうか。
質問の第二点、御承知のように文部省は、昭和二十一年三月三日、文部省令をもつて、国民学校令施行規則及び青年学校規程等の一部を停止して、修身が教育勅語の趣旨に基いて行わるべきことを定めた部分を無効といたしました。次いで同二十一年十月九日、文部省令において、国民学校施行規則の一部改正を行つて、式目の行事の中から教育勅語捧読に関する規定を削除いたしました。ちなみにこの行政措置のことを、これによつて教育勅語は教育の指導原理としての特殊の効力を失効させたものである、というのが政府解釈でありまして、従来それで来ておるのであります。
昭和二十三年六月十九日に、前々年の日本国憲法の公布、教育基本法の制定に続く立法措置といたしまして、衆参両院において、日を同じくして、客派共同提案にかかる教育勅語等排除に関する決議が採択可決された際に、政府を代表して時の文部大臣森戸辰男君は、「文部省より配付してあります各学校の教育勅語の謄本は、全部すみやかにこれを文部省に回収いたし、他の詔勅等も決議の趣旨に沿うて、しかるべく措置せしめる所存であります」と、強い決議に恐縮し、「本決議の精神の実現に万全を期したいと存じておる次第でございます」と、その演説を結んでいるのであります。その森戸文相の演説にはこういう断言があります。「さらに思想的に見まして、教育勅語は明治憲法を思想的背景といたしておるものでありますから、その基調において新憲法の精神に合致しがたいものであることは明らかであります。教育勅語は明治憲法と運命をともにすべきものであります。」こういう速記録があります。
そこで文部省は、昭和二十三年六月二十五日に次官通牒を出しまして、発秘第七号で地方長官並びに学校長に対して、その回収を命じておるのであります。文部省及び文部大臣のこれらの措置及び態度はもちろん正しいと思う。しかるにこの毅然たる措置及び態度と相反するものこそ、教育勅語の内容はいい、徳目はよいと言われる大達文相の前会の御発言であります。何事も品を開けば伝統々々と言われる大臣が、ふしぎにも、ここでは終戦後の文部省のやり方や方針や、その理解と、明らかに対立していられるのであります。吉田内閣も第五次ともなれば、大臣がかわれば、こうも文部行政が百八十度に転換するものかと言つてのけるにしては、問題はあまりに重大じやないでしようか。過去のそれと新大臣のそれと相違なしと言い張られるかどうか。終戦後の歴代の日本政府及び文部省の教育の基本方針に反しているのが、大達文相の前会の発言であると私は確信しているのであります。まるで新しく就任して、まるでかわつたことを言い出して来た大臣がここに現われた。これは驚き入つたことである。こういう心境からお尋ねをしておるものであります。それでよいかどうか。第三にお尋ねいたします。文部大臣の演説は、教育基本法に反する内容のものであつた。教育基本法と背反する。その理由は、教育勅語は基本的人権を認めるでもなく、民主主義を認めるでもなく、主権在民を認めるでもなく、体育の価値を認めるでもなく、人類の悲願であるところの平和をうたうでもなく、忠孝両全でさえもなく、忠義第一主義で貫かれております。教育勅語は三段にわかれておりますが、その第一段は「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠二」と筆を起し、第一段の結びは「此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実二此二存ス」という句で結ばれていることでも御想像がつきましよう。
詩に起承転結という法則がございます。詩吟するときにその転の部分を一きわ声を張り上げるようになつております。教育勅語にも芸術性がございまして、君に忠に親に孝にと、まことに朗吟に適し、あの人民を行動にかり立てる歴史的名文句、すなわち「常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶習スヘシ」これは第二段の徳目の重要なる一つであります。第二段の一部で上ります。戦争が始まつたら皇運扶翼のためだ、それ義勇公に奉ぜよ。教育勅語をもしあるいは瞑目し、あるいは刮目して、虚心担懐に読む人があるならば、ここらが教育の淵源、文書の眼目中の眼目であることが会得されるに違いありません。さればこそ、これでもかこれでもかと続けられたあの戦争が、八月十五日を迎えたとき、その品を境として、国民は頭の切りかえを行い――いわゆる精神革命であります。日本の民主化を志す国会は、教育勅語にかわるべきものとして教育基本法を可決いたしました。私は当時その法案の審議に参加いたしてもおり、教育某本法は教育勅語に置きかえられたものであると理解しておるし、もちろんそれは事実であります。しかるに大達文相は、道徳や教育の基本方針を語るにあたつて、これを持ち出すことをせず――あのとき持ち出さねばならなかつたのですよ、持も出すことをせず、教育勅語の内容はよいよいと申されます。前会の御発言は、教育基本法の魂とも言うべき同法の前文及び第一条と相反し、もちろん従つて教育基本法に相反するものと私は認めますが、これについて率直にお答えを願いましよう。
教育勅語に関する御発言に関する質問の第四点、大臣の前回の御発言は、日本国憲法に反すると私には確信されるのであります。質問を簡潔にするために要約的に申しますと、教育勅語は主権在君、しかるに憲法は主権在民、教育勅語は皇祖皇宗、国体第一主義でありましよう。さきの一旦緩急のときの心得もすべて皇運扶翼のためでございますが、これに反し憲法は徹底した平和主義であります。教育勅語は自由平等なく、基本的人権なく、これに反して憲法は、基本的人権を三本の柱の一本にきめておるのであります。大臣、このくらい憲法と食い違う教育勅語をあなたのようにほめちぎることは、憲法に反する、私はこう信じて、こう申すのであります。憲法第九十八条か九条には、この憲法を尊重し擁護すべき義務を負う者の中に、特に国務大臣を特別に抜き出してしるしてあるのであります。あの二十五日の発言は憲法と相反すると私は断定いたしますが、御所見いかん。私の主張が誤つているならば、あわせてそれをも御指摘いただきましよう。
そこで最後にこういうことをお尋ねいたします。すなわち憲法一つと違つていても、教育基本法一つと違つていても、過去の文部行政を踏襲する腹でいて、反対にそれとまつこうから対立しているというその一事でも、どの角度から考えても、あの演説は誤謬であつたことになるのであります。これは私の考えですから、道義の高揚を政策となさろうとするお立場の大臣は、男らしくこの誤謬を認めて、これをお取消しになつてはいかがですか。誤つて改むるにはばかることなかれ、これは美徳であり、すなわち日本の道徳の徳目の一つとなるやに思われます。文部大臣はこの際この道徳をみずから実行して範を示される御意思ありやいなや。
以上大臣の信念なりやいなやから始まり取消し勧告に及ぶ五つの点について、明瞭にして責任ある御答弁をお願いする次第であります。
○大達国務大臣 三点にわけて御質問になりましたが、関連しておりますから一括してお答え申し上げたいと思います。
お話の通り教育勅語が以前はわが国の学校教育の道徳教育の中核をなしておつた。この地位は新憲法の実施、新時代が来たに伴いましてその地位を失墜した、これは明瞭な事実であります。私は、教育勅語がいわゆるその形式において天くだり式な形をとつておる。これが新しい憲法、ことに主権在民という考え方から言うと、その形式において矛盾があると申しますか、相いれない点があるので、その意味において学校の道徳教育の中心である地位が失われた、かように解釈しております。ただ先日申し上げましたように、教育勅語は、勅語の形式、つまり天くだり式形式はとつておるけれども、その内容におきましては、わが民族の伝統の道徳精神を盛り込んであるものと思つておるのであります。従つて教育勅語に盛られておるその道徳的な精神というものは、これが教育勅語という形のものがかりになくなつても、その中味までが全部捨て去らるべきものではない、これは私は確信しておるのであります。そこでただ前会答弁の際にも申し上げました個々の徳目につきましては、その時代々々、社会の変遷に伴つて、新しい時代に適応するように、国民の道徳的な良識によつて自然に取捨選択せられるものと思うのであります。今日わが国は平和国家として、文化国家として、また民主国家として再出発をいたしておるのであります。また主権在民と申しますか、そういう政治形態において、以前とかわつた形において出発して、おるのでありますから、その社会生活において必要とする道徳が生れなければならぬ。それは徳目として以前と比べて取捨選択せられるべき部面があるということであります。これはその道徳の精神がただちにやめられる、こういうものではないと私は思つておるのであります。前会私の申し上げました意味は、言葉が不十分でありますために、形式的にそのまま私が一々の徳目までも是認したというふうにお受取りになつたかもしれませんが、私の申し上げた意味はさような意味であります。たとえて申しますと、今日時代劇などで見る、主人のためには子供を身代りにする、こういうことは封建時代においては非常にりつぱな道徳的なものとして讃美せられた。しかし今日だれもさようなことを是認する者はありません。それは徳目が国民の良識によつて、また社会の変遷によつて取捨選択せられた結果と思うのであります。しかしながら恩義に報ゆる気持であるとか、困難にあたつて助け合う気持とか、その底に流れる精神に至つては、時代の移りかわりはありましても、それは形をかえて出て来ることであつて、それは根本的にゆるぎない。教育勅語にたつてあるところのわが国伝統の道徳というものは、根から末から全部いけないのだというよなことは毛頭考えておりません従つて私は、私の発言が憲法の規定に違反するとか、さようなことは絶対にないものと考えております。
○高津委員 今大臣は、五つ項目をわけて質問したのに対して、実に簡単な答弁で、私はそれをきわめて遺憾とするものでありますが、それでは質問士続けましよう。
教育勅語は従来道徳教育の中核であつた、しかし主権在民と形式的に違うだけで、その精神というものはりつぱなもので、徳目は時代々々によつて新しい時代に適応するように取捨選択さるべきものである、精神はりつぱだ、こう言われるのでありますが、大臣の答弁はあの速記に明らかなように、内容を全部承認しておられるのであります。徳目の中には取捨選択せらるべきものがあるなんていうことは全然言わないで、教育勅語の内容をなしております徳目の中につきましては、これはわが民族として最も大切にこの徳目を保存してこれを履行して行かなければならないのだと思つておりますと言つて、取捨選択は時代とともにやるものだというような一番大事な部分は全然申しておられないのであります。そうして新しい時代には合せて行かねばならぬということはあつたが、教育勅語のその眼目中の眼目の部分は、ああいうのはいかぬということくらいはさまないならば、私は人を誤るものであると思うし、今の答弁の言葉を聞いておれば一々の徳目まで是認したようにお聞きとりになつたかもしれないが、私の考えはそうではなかつた。――あなたの発言が間違つておるので、今の速記を読めばだれだつて――それは発言者の発言の内容が問題で、私が聞き間違つたのでないことは明白ですよ。聞く者の罪にして、自分はそういう意味ではなかつた、そういうようなことを言うて逃げようとするのは非常にいかぬと思う。
それから憲法の規定に反しないというそういう答弁だけあつて、教育基本法に反するかどうかという質問に対しての答えがない、それをまず聞きましよう。
○大達国務大臣 私は先ほど高津さんが私が言うたことを聞き違えられたと言つたんじやありません。私の申し上げた言葉が不十分なために、あるいはそういうふうにお聞きとりになつたか百もしれぬ、しかし私の申し上げた意はこういう意味でありましたと、こういうふうに申し上げたのであります。先般のお答えを申し上げたときも、私は民族の道徳というものが無から有を生ずるように、一朝一夕一旦にしてでき上るものではない、必ずや伝統の道徳、われわれの民族の長い間の踏み来つた道徳というものが基礎になつて、それが新しい時代に適応される形をとつて、新しい道徳が生れるものと思う、こういうことを申し上げましたのは、先ほどやや具体的に申し上げましたと同じつもりで申し上げたのであります。その点あらためてさように御了解をいただきたいとお願いします。
なお憲法に違反するものではないということを申し上げましたが、従つてもちろん教育基本法に違反するものとは考えておりません。
○高津委員 文部省の従来の教育勅語に対する政策とか、従来の文部省の大臣やいろいろの文部省の扱いというものとはまるで違つていると思うが、それに対してはちつとも違つておらぬと考えておられるのかどうか、あらためて速記に残しておきたい。
○大達国務大臣 従来の文部省の教育勅語に対する扱い方とまるで違つておる、こういうお話でありますが、私はこまかいことにつきましては、従来どういうふうになつておりますか、実は詳しくは存じません。しかしながら教育勅語の朕という字だけとつて、あとそのまままた訓話の形にして出すとか、そういう民族の道徳というものを、私は天くだり式な形をとるべきものでもなく、その意味において、教育勅語というものは今日学校における道徳教育の中心であつた地位を形式的に失墜し、また失墜させられたと思うのです。この点におきましては、文部省は従来そういう処置をとつた。これを私が今ひつくり返して、また昔にもどそうというようなことは毛頭考えておらぬのでありまして、大筋のところで文部省の従来の措置と相反する措置をとるつもりもありませんし、またさようにしておるとは思つておりません。ごくこまかい扱い方についてどういうふうになりますか、その点は私は従来のことを存じませんから、何とも申し上げられませんが、気持はさように御了承願います。
○高津委員 訓話を出すか出さぬかは今申し上げられぬというのが前会の答弁だつたのですが、そうすると教育訓話のようなものは出さないという発言だと理解していいですか、今の発言は……。
○大達国務大臣 十分検討した上でなければ申し上げられません。その意味において前会さように申し上げました。ただ私は、国民の道徳はかくあるべしということを、中央から頭から天くだりの形において訓話――訓話がはたして天くだりになるかどうかそれは知りません。天くだりになるかどうかそれは書き方によりましよう。しかし少くとも天くだりの形で徳目を国民に押しつける形式はとりたくないと思つております。
○高津委員 前の天野文相の国民道徳実践要綱、そういうふうなものは自分が大臣中には出さないという意味であると私は理解したのでありますが、それは私は非常に賛成です。だが文部大臣のセンスあるいはイデオロギーは、現在のPTAあるいは全国五十万の教職員諸君、あるいは文部省の多くの役人諸君、それら教育行政に関係しておる人々のセンス及びイデオロギ―とは、おおよそ大きなずれがあると思いますが、これで何箇月か何年かやつぱりやつて行けるものだとお考えになつておるのでしようか、
○大達国務大臣 ずれがあるかないかは高津さんの御観測にまかせる以外にありません。これは私から何とも申し上げることはできません。ただ私の返事で御不明の点があつたようでありますから、その点を申し上げますが、私は教育訓話というものを出さないということをここで申し上げたのではありません。これは訓話の書き方もありましようし、扱い方もありましよう。少くとも天くだり式に徳目を国民に押しつける形はしない、こういうことを申し上げただけであつて、訓話というものは表題だけで、中味はまだないのですから、これを表題だけで、出すとか出さないとかいうことを今はつきり申し上げたわけではありませんから、その点誤解のないように願います。
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1948年6月19日
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教育勅語等排除に関する決議
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教育勅語等排除に関する決議(1948年6月19日衆議院決議)
民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の改新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。
思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すものとなる。よって憲法第98条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
右決議する。
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1948年6月19日
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教育勅語等の失効確認に関する決議
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教育勅語等の失効確認に関する決議(1948年6月19日参議院決議)
われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすぺきことを期する。
右決議する。
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