(憲法を考える)自民改憲草案・前文 by朝日新聞
(憲法を考える)自民改憲草案・前文:1 身構える相手は戦後日本
2016年4月1日05時00分
自民党の日本国憲法改正草案は、五つの文で成る前文に始まる。短いので、連載にあたって初めにそっくり引用しておきたい。草案全体の色合いが鮮明で、その意味では前文としての務めをよく果たしている。
《日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。》
草案に対しては、復古的だ、戦前回帰だと既に言われていて、逐条にわたる大部の批判書まで出ている。前文を一読してまず思うのは、現行の前文になじんでいるせいか、身を硬くしていて、のびやかでないということである。短く簡潔にしたこと自体は良いにしても、何か身構えたような、ゆめ油断してはならぬといった感じで息が詰まる。警戒態勢に入ったハリネズミのよう、と言って悪ければ、寄らば斬るぞと肩いからせた侍だろうか。
何に身構えているのか。中国の台頭か、北朝鮮の脅威か、正体不明のテロ集団か、はたまた現行憲法を「押しつけた」アメリカか。そうとは思えない。身構えている相手は、現行憲法そのものであり、図らずも――とここではあえて言う――それを手にし、我が物にすべく育んできた戦後日本ではないか。
安倍晋三首相は、この草案は「あるべき憲法の姿を示している」と胸を張っている。現行憲法は押しつけられたもので、みっともない憲法だとかねて公言してきた。前文については「全く白々しい文と言わざるを得ない」とかつて国会で語っている。
さらば戦後ということか、前文は頭から――主語を「日本国民」でなく「日本国」にするところから――書き換えられた。あの愚かな戦争と敗戦は「先の大戦による荒廃」の一言で片づけられている。権力は国民の代表者が行使し、その福利は国民が享受するという現前文の「人類普遍の原理」は削られて、あるべき世界を目指さんとする宣言も消えた。
代わって現れたのが、天皇を「戴く」けれども国民主権であって、国際社会で既に一目置かれ、国民が「誇りと気概を持って」守る日本である。
前文を5回にわたって考えてみたい。(福田宏樹)
(憲法を考える)自民改憲草案・前文:2 「良き過去」国民に継承求める
2016年4月2日05時00分
憲法は何のために定めるのか。自民党の日本国憲法改正草案は、前文の最後の一文で「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」と明記している。
冒頭の一文が「日本国は」で始まるのに呼応するように、最後まで重視されるのは国家である。先に引いた一文は、主語が日本国民であるだけに、なおのこと国家が高みに立つ。
その国家のあるべき姿は、結びに先立つ四つの文に示されている。そこでは、国民は国を守る「誇りと気概」を持ったり、家族が互いに助け合ったりして「国家を形成」することになっている。
結びの一文は、国家とともに「良き伝統」を継承すると言っている。前文冒頭の「長い歴史と固有の文化」と響き合うところで、日本古来の良きものを大切にし、引き継ぐことが憲法制定の理由としてうたわれ、前文全体の基調を成している。
換言すれば、草案の前文は日本の過去に大変重きを置いている。現行憲法とともにあった時間よりも、さらにさかのぼった過去である。
では現行の前文は憲法制定の理由をどう書いているだろうか。少々長いが引用したい。こちらは草案と違って冒頭に置かれた一文である。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」
翻訳調だ、日本語としてこなれていないという批判は制定時から絶えずある。当時の国会では、社会党の議員からも「冗漫で、切れるかと思えば続き、源氏物語の法律版を読むが如(ごと)き感」と苦言が出た。現行憲法の生みの親で、国会答弁をほぼ一手に引き受けた金森徳次郎は、巧みな弁舌でこれらをかわしつつ、要は内容だということを再三述べている。
この一文、眼目の一つは「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」と決意しているところだろう。自民党草案にも「平和主義の下」の一言はあるが、それが従前の「戦争をしない」と同義でないことは安全保障関連法の審議を通じても明らかである。
主権は国民にあり、その国民は諸国民と共存しつつ「自由のもたらす恵沢」を確保し、政府に戦争をさせず、「われらとわれらの子孫のために」そのような日本であるべくこの憲法を定める――。現前文は初めにそう宣言し、この先のあるべき日本と世界を描く。主語はすべて「日本国民」か「われら」である。結びの一文では、その日本国民が、「国家の名誉にかけ」て、「崇高な理想と目的を達成する」と誓うのだった。
自民党草案の前文も日本の将来像を示しているが、観点も趣も異なる。どう語っているか。
(福田宏樹)
(憲法を考える)自民改憲草案・前文:3 「経済による国の成長」に収斂
2016年4月5日05時00分
日本はどんな国であろうとするのか。自民党憲法改正草案の前文に、次の一文がある。
「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる」
自由と規律、国土の保全、教育振興が並び、最後は「国を成長させる」で結ばれる。そこに収斂(しゅうれん)されていく、と言ってもいい。少なくとも、この先も経済成長を続けることが日本には欠かせないと自民党が考えていることはよくわかる。教育や科学技術は、「活力ある経済活動」に大いに役立ってもらいたいということなのだろう。環境破壊には気をつけなければならないが、経済成長によってますます発展していこうではないか、と。
これは現行の前文には見られない視点である。草案のこの一文には、敗戦直後には予想し得なかった高度経済成長を遂げ、経済的には世界の大国になった成功体験が透かし見える。政治的にも重きをなしたいと国連安保理の常任理事国入りに血眼になったのも、各国への多額の援助という強力な支えがあってのことだった。驚異の右肩上がりよ再び、とまでは言わずとも、この先も下り坂はもちろん現状維持さえ前提にはできないということである。
これは議論が大いに分かれるところに違いない。
10年以上も前、月刊誌の企画で憲法の前文を公募する試みがあった。「全くもってタイシタコトのない 世界的にみてソコソコの国がいい」という高校生の作が話題になったが、私もこれにはひざを打った。先立っては、政治家から「質実国家」「小さくともキラリと光る国」といった言葉が盛んに語られていた時期もある。細川政権の頃だった。経済成長が最優先か、大国志向一辺倒で良いのかという提起である。
その問いは古くて新しい。まして昨今は、新自由主義的な政策運営や格差社会の深化が大きな問題になっていて、学問までが経済成長に奉仕するものであるかのように扱われがちな現状には、大学人から異議申し立てが相次いでいる。
アメリカの哲学者マーサ・C・ヌスバウム氏は、これを世界的な傾向として、民主主義に不可欠な諸能力が競争のなかで見失われつつあると著書「経済成長がすべてか?」で警告した。諸能力とは、批判的に思考する能力、「世界市民」として問題に取り組む能力、他人の苦境を共感をもって想像する能力を指している。
それらの能力は、利潤追求のなかで切り捨てられゆく人文学や芸術と密接な関係にあるとヌスバウム氏は説き、「繁栄はしているものの民主的ではなくなった国に住みたいと思う人はあまりいないでしょう」と問いかけている。
冒頭に引いた草案の一文は、「自由と規律」を「国を成長させる」文脈に置いている。前文のなかで、自由という言葉が登場する唯一の文である。ここは考えどころだろう。
(福田宏樹)
(憲法を考える)自民改憲草案・前文:4 「自由」と肩を並べる「規律」
2016年4月6日05時00分
自由と規律を重んじ、と自民党憲法改正草案の前文は言う。党の草案Q&A集は、次のように説明している。
「自民党の綱領の精神である『自由』を掲げるとともに、自由には規律を伴うものであることを明らかにした上で、国土と環境を守り、教育と科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させることをうたいました」
市場経済について語られる時、自由と規律は非常にしばしば持ち出される。自由競争にもルールが要る、両者のバランスが欠かせないというわけで、証券業界の不祥事ともなれば野放図を戒めるべく決まり文句のように強調されてきた。
もう一つ、自由と規律が頻繁に説かれてきた分野に教育がある。好き勝手なのが自由ではない、規律を忘れるなと言われてきた。戦後教育への批判では定番の感がある。
安倍晋三首相は、経済と教育の両分野でこの言葉を駆使してきた一人である。官房長官だった2006年の自民党総裁選では、政権公約「美しい国、日本。」で「自由と規律の国」をうたい、その項で教育改革や「民間の自律と、過度の公的援助依存体質からの脱却」を挙げた。同じ公約には「自由と規律でオープンな経済社会」ともある。
平仄(ひょうそく)が合うと言うべきか、草案の前文もまた、教育と経済の二つがそろう一文に自由と規律が登場してくる。このことは、草案の前文を――すなわち草案が描く日本の姿を――特徴づけている一つだと私は思う。
利潤や効率が求められる経済と、それを度外視しなければ本来成り立たない教育はまるで別物だが、それぞれに、それぞれの仕方で自由と規律が求められるのはその通りだろう。
特徴というのは、自由という言葉がその文脈でしか現れず、しかも規律が対等なものとしてセットで「重んじ」られているところにある。自由は規律を伴うべきだという一般論には、誰しも異存がないかもしれない。ただし、事の順逆ははっきりしているのではないか。自由を確保し、維持していくための規律であって、その逆ではないことである。
自由という言葉は途方もなく大きく、深い。民主主義社会のキーワードであり、世界史は自由をめぐる戦いと試行錯誤を連綿と記録してきた。だからこそ現行憲法の前文は「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」するのだと宣言し、かつそれが憲法制定の目的を示す一文のなかに置かれている。
自民党議員として衆院憲法調査会長を長く務めた中山太郎元外相が、会長当時の01年に編んだ「世界は『憲法前文』をどう作っているか」という本がある。近代憲法とは何か。それは「国の権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする」ものだと説き、普通の法令と違う特質の第一に「自由の基礎法であり、自由を裏付ける人権規範を支えるものであること」を挙げている。
思えば、自由民主党とはかくも大きな言葉を冠しているのだった。
(福田宏樹)
(憲法を考える)自民改憲草案・前文:5 普遍の原理より日本の誇り
2016年4月7日05時00分
連載の初回で、自民党の日本国憲法改正草案の前文は「のびやかでない」と書いた。息が詰まる、と。端的な一文を引く。
「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」
日本国民とは何か。それは「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守」る者であり、「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」ための一員であると草案の前文は言う。
その二つに挟まれて、基本的人権の尊重と「和」の二つがうたわれている。並置された四つを満たして、日本国民は日本国民たり得ることになっている。
基本的人権の尊重は、この文脈に置かれると、現行憲法がうたう基本的人権と同じものとは解しがたい。自民党の草案Q&A集を見れば、なるほど違うと書いてある。「人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だ」とし、天賦人権説は西欧由来だからと退けているのである。
「和」はどうだろう。Q&A集によれば、「和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である」という理由でこの一文に入った。「和」は本来、「個人」なしには始まらない。草案の「和」は、価値観を違える個人を包摂するものかどうか。
つまるところ、草案の前文は日本は他とは違うのだと言っている。世界に日本の特殊性を誇り、内に向けては国民かくあるべしと引き締める。奨励されているのは自助や共助であり、それによる国家への貢献である。
もう一度、現行憲法の前文を――草案が排した言葉の数々を読んでみる。「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと」……。
理想論だと言われてきた。確かにそうだろう。だがそれはひとり日本の理想ではない。「専制と隷従、圧迫と偏狭」を繰り返してきた人類が、どれほど年月がかかろうと、どのように安全保障の環境が変わろうとも、いつの日か現実にすべきものとして掲げる理想である。それを手放せば、目の前の現実に振り回される一方になってしまう。
人類普遍の原理をうたい、人類共通の理想の追求を誓うことによって、現行の前文は際立った特殊性を持つことになった。草案の前文が示す日本の特殊性と、それは大きく異なる。いずれを良しとするかは人それぞれだろう。確かなのは、どちらにくみするにせよ日本国民であり、個人として等しく尊重されなければならないことである。
草案の前文には、考えるべき点がまだ幾つもある。それらを含め、この連載は以後、様々な記者が条文に分け入っていく。
最後に書いておきたい。どんな前文であろうと、時の権力者に憲法を守る意志がない限り意味を持たない。いま問われているのは、「憲法改正の是非」以前に、「権力者が憲法を顧みないことの是非」だと私は思っている。(福田宏樹)
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