「虚偽の主張は一切許さないぞ」と脅す義母の三男
この写真は2009年
網膜変性症という難病をもつ義母が失明した頃
わたしが訪れた最後の日に
義母の部屋から庭を撮った
この大正時代の家に
20年前に亡くなった父親の遺族年金だけを頼りに
40年間ひきこもりの義弟(三男)と
同じく45年間昼夜逆転の生活をして
親のすねをかじって生きてきた義姉(長女)
すでに92歳になった義母が暮らしていた
いずれこんな日が来ることを案じて
夫(次男)とわたしは
両親にいろんな提案をしてきた
弟には仕事を、姉にはせめて結婚をすすめては
だめなら相応の金を用意して自立させてはどうか
ここに3階建の住居を建てて
親、姉弟、自分たちは最上階と住み分け
台所を独立、生計を成り立たせる必要性を・・・
しかしそのいずれも受け入れられなかった
2009年の段階でも
認定後介護度3となった義母に、ケアマネジャーを決めよう
担当医を決めたのだから、訪問医療をしてもらおう
世話が大変というなら、ヘルパーを頼もう
お風呂に入れられないというなら、訪問入浴を・・・
しかしなにひとつ義姉には受け入れられなかった
25歳で家を出た夫は
実家の生計を具体的にはなにひとつ知らされなかった
ただ義母は「○○子のことだけは頼むよ」が口癖だった
なぜか義母は義弟のことには一切触れなかった
時々、義姉から突然電話がかかり
「○月○日○時に必ず来てね」と一方的に命令
その時刻に少し遅れてしまったある日
実家の玄関に入ると
「だれか・・・だれか・・・」と母が家の中を徘徊
義弟がいるはずだが・・・と夫が廊下をみると
そこには・・・母の糞尿が・・・
目が見えなくなっている母はトイレのありかもわからず
家人を呼ぶが、誰も来ず、とうとうここでやってしまったかと
夫は何時間もかけてこの糞尿と格闘
数時間後、家に戻った義姉はありがとうもなく
糞尿の後始末に使った新聞紙をみて
「なによ、これ!わたし、まだこの新聞読んでないのよ」
山のようにうずたかく積まれた古紙の中から選んだものだったのに
これにはさすがの夫も立腹
義姉が弟ごときに礼を言うはずがない
義姉には子どもの頃のように「命令と叱責」しかない
この日を堺に夫は義姉と決別
親不孝を長年していたから
最後くらい親孝行したいと言っていた夫だったが
そのことをわたしはブログに<自立の詩>と書いた
自立の詩
http://harunire.at.webry.info/200902/article_1.html
今思えば、あの頃のわたしには
現実がなにひとつ見えていなかった
それから3年の月日が過ぎた2011年6月1日
義姉からまた突然、電話がかかってきた
この顛末はブログ<義母の本籍探しの旅>に少し書いた
義母の本籍探しの旅
http://attain.at.webry.info/201108/article_3.html
あれから2年
言葉では形容できないほどの悪夢だった
あまりにつらく
日々を記録することでやりすごしていた
2013年4月20日
義母の死で
苦しい日々から解放されたと思っていた
が、2014年3月18日
義姉の代理人という弁護士から遺産相続分割案が
あまりにひどい内容に唖然
しかし時間が経つにつれ
この3年間、義姉から受けた理不尽な対応の理由が明らかになった
そして、疑義を晴らさないことには怒りが収まらないことに気づく
義姉が親類の人に言っている言葉も想像できる
4月25日に届いた弁護士からの「ご連絡書」には
「虚偽の主張を一切許さない」と義弟(三男)が言っていると
いずくんぞ安寧の日は
という心境だ
次回この続きを・・・