茅ちゃん日記

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「慰安婦」研究 雲南の激戦地における悲惨と偉大 その4

地の塩になれればと より転載

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慰安婦」研究 雲南の激戦地における悲惨と偉大 その4

 

(4)激戦地で日本兵と共に玉砕した朝鮮人慰安婦」の無言の重さを想う

1)死者は語れず、また生存者の多くはは語れない。語ろうとしても、引け目や罪責感のために語れない。
 生存者の一部だけ語ることができる。それを尊重するが、しかし、それが全体を代表し、しかも、自分の証言以外を否定することは認められない。

2)日本軍守備隊が玉砕した雲南・拉孟における「慰安婦」は、松井秀治『ビルマ従軍 波乱回顧』(興竜会本部、福岡、一九五七年)でも記述されている。その第二巻第十四の「慰安」(一八五頁以降)では、「拉孟で最も立派な建物」を新築して「慰安所」とし、昭和「十七年の暮も押し詰まった頃、半島人慰安婦十名が軍の世話で到着した。十八年の夏頃又内地人と半島人合せて十名が派遣された。最初の半島人十名は十八年に龍陵の慰安婦と交代したが、これ等の慰安婦は十九年六月後方との交通が遮断された為後方に脱出する事が出来ず、拉孟の将兵と共に玉砕した。此等の女性は最初は慰安婦であったが、拉孟が包囲されるに及び全く日本婦人と変り、兵の服を着用し炊さんに握り飯つくり、患者の看護等に骨身を惜しまず働いて呉れたが、気の毒なことであった」と述べられている。
 「気の毒なことであった」とは戦死・散華を示唆していると言える。既述したように「投降」した、或いは隠れていて発見された「慰安婦」もいるだが、玉砕・散華した「慰安婦」もいたと考えられる(黙祷)。
 先の拉孟の写真①や②では数名だけであるが、前の引用文では「慰安婦」が十数名いたことが分かり(日本人リーダーに朝鮮人サブリーダー二人の下に多くの中国人「慰安婦」という構成から推計すれば、朝鮮人の方が多かったと言える)、残りは約十名となる。もちろん、包囲網を逃れ、行方をくらました者もいたかもしれない。いずれにせよ検証はできないが、戦死・散華の可能性を排除することもできない。

注記:
 『ビルマ従軍 波乱回顧』は、国会図書館には収蔵されているが、CiNii Books(国立情報学研究所)では検索できなかった。私は品野の所蔵していたコピーに拠っている。この『ビルマ従軍 波乱回顧』は、貴重な文献であるため、ここで当該頁を紹介する。『異域の鬼』三〇二頁の中村森太郎少尉の体験などに注意しつつ読む。



3)先述の引用文は半島を統治していた日本側の見方であり、被統治者ではない点も注意しなければならない。当然、美化にも注意しなければならない。
 また玉砕したとしても、嫌々ながら逃げ出せず、戦火の中で命を失った者もいる可能性もあるが、そこまで言えば日本兵でも同様である。
 その上で、「慰安婦」となったからにはと、「挺身隊」の文字通り身を挺した「慰安婦」もいたことから、引用文は一面的であるとまでは言いきれない。
 (2)の6)で取り上げた、日本兵朝鮮人慰安婦」が「この体、日本人ととこちがうか」、「日本人と同じ米の飯食べてるんだ。日本人と同じ天子様が朝鮮をおさめているんだ。どこもちがわないね」、また「チョウセンピー、チョウセンピーって、バカスルナァ!テンノヘイカ、ヒトツトォ!」、「おまえ(日本兵―引用者注)の格好は何たるざまだ。それでも皇軍か?それでも神州男児か?この馬鹿野郎!」などと言い返し、罵倒したことは、その現れである。
 このような朝鮮人慰安婦」であれば、当然、包囲された拉孟守備隊で「全く日本婦人と変り、兵の服を着用し炊さんに握り飯つくり、患者の看護等に骨身を惜しまず働」き、日本人兵とともに玉砕したと言えるのである。
 このように考えることは、彼女たちの生き様をしっかりと受けとめることに通じる。
 そしてまた、生き延びた「慰安婦」の語る被害の証言の重さを思うならば、壮烈に戦死・散華した「慰安婦」の無言の重さをも思いを馳せるべきである。

(5)死者の声なき声に傾聴する―「死人に口なし」では終わらせてはならない

1)玉砕前の拉孟守備隊の状況について、吉武伊三郎軍曹(当時は伍長)の証言に基づき、品野は、以下のように述べている(『異域の鬼』三二二~三二三頁)。
 「全滅の一日か二日前だった。吉武伍長は慰安婦たちに大声で泣きつかれた。慰安婦たちは看護婦がわりに働いている。手足のもげた兵たちが呻き毎日々々死んでいく。彼女たちの神経がもてている方が不思議なくらいだ。
 『どこでもいい、この場から一緒に連れて逃げてェ』とすがりつくが、どうにも仕様がない。そのときまで二〇名の慰安婦はみな無事だった。服装も、兵隊服やモンペでなく、女のワンピースだった。『こんな女たちも道連れにせねばならんのか』と、吉武伍長は不憫でたまらなかった。
 『連れて逃げ出したいのは山々だが、飛び出しても敵ばかりだし、仲良く暮らしてきたのだから兵隊たちと一緒に死のう』というしかなかった。冗談まじりにいったつもりだったが口がひきつった。
 九月七日、横股陣地に追い詰められた。雨でビシャビシャになっているコの字型の大きな横穴壕に重傷者と慰安婦が入っている。昇汞錠を重傷者と慰安婦にも与えた。重傷者はほとんど飲まず手榴弾で自決した者が多かった。」
 自決のための「昇汞錠」を、吉武伍長は与えたが、それ以上は働きかけずに当人の判断に任せたと読める(次項の里美兵長の対応を参照)。
 なお、品野によれば、昇汞錠(水に溶かして消毒に使う塩化第二水銀で、致死量〇・二~四グラム)が、全員、自決用に「二包あて(錠というが無色光沢柱状結晶)」渡されたという(二八四頁)。
 他方、千田は「青酸カリ」と記している(前掲『従軍慰安婦 正編』一三八頁)。それでは、千田は誤りかと言えば、即断はできない。
 品野がインタビューした者は知らなかったが、隊長や指揮官は持っていた可能性はある。また「慰安婦」は前々から所持していたとも考えられる(金春子はピストルを渡されいよいよ最後の時は自決しろと告げられ、自覚した)。これは「慰安所」での性的行為は戦いの延長、或いは一環であり、このような意味で名誉や尊厳を感得していたことを意味する。それ故、敵の戦時性暴力を受けることは耐えられず、操を守るために自決する。
 かつて、武家では少女が成人になると「懐剣(短刀)」を与えられ、襲われれば防御・撃退し、そうできなければ自決した。この武士道(婦道)的な精神を、金春子にも見出すことができる。
 確かに歴史的な制約を見なければならないが、新渡戸稲造が『武士道』第一四章「婦人の教育と地位」で、少女の「懐剣」に関連して、自分の純潔と信仰を守るために自決したペラギアとドミニナを聖女に列していることは熟考すべきである。

2)その後、吉武伍長たち脱出するが、その三、四時間前に「二、三人の慰安婦が飛び出」し、「水無川に転げ落ちるようにして逃れた」一方、日本兵の自決の「そば杖」か、或いは「一緒に」自決したか確認できないが、脱出しなかった「慰安婦」もいた(『異域の鬼』三二三~三二四頁)。後者について、西野瑠美子は「自決の巻き添えになった可能性もある」と述べているが(『戦場の「慰安婦」―拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡―』一〇五頁)、日本兵とともに玉砕・散華した可能性もある。
 そして、先に引用した『異域の鬼』の同じ部分を、西野は『戦場の「慰安婦」』一〇七~一〇八頁で引用し、その時に脱出した一人であるとして朴永心の証言を紹介している。即ち『戦場の「慰安婦」』は、『異域の鬼』に言及しつつ、独自に聞き取りした証言も加えて、朝鮮人慰安婦」朴永心の悲惨な被害を取り上げ、日本人の反省・謝罪の必要性を提起し、加害者である日本兵の証言も、これに沿って被害者(朴永心)の証言を補強するようになっているが、その信頼性への疑義を、本論文1(3)で述べた。

3)『戦場の「慰安婦」』の結びでは、朴永心が人間として「尊厳」を破壊され、「“恨”を抱えたまま死ぬことはできません」と語ったことが取りあげられている。そして、西野は彼女が生き延びたのは「諦め」ずに「生きようとする意志」、「強い生命力」があったためであり、また八〇歳を越えても「人間の尊厳を取り戻す闘い」の「結果」を出そうとする「強い意志」があり、それが「生命力の源」となっていると評価する(『戦場の「慰安婦」』二二一頁)。この証言の信頼性が確かめられれば、尊重する。
 ただし、1(3)で述べたように「恨」という情念、怨念を「生きようとする意志」、「強い生命力」に結びつけることは慎重に注意しなければならない。その超越・昇華がなければ、「恨」の依存となる。そして、その支援は依存を助長する。
 逆に見れば、超越・昇華すれば、「恨」や、その「支援」を名目に歴史を政治外交に悪用することができなくなる。また、この問題で目立とうとすることもできなくなる。それ故、狡猾で卑小で偽善的な野心を抱く者は、超越・昇華させずに、それを助長させる。これでは、当事者は「恨」を抱え続け、また「支援」者はそう続けさせる。この点でも、西野の調査を問わねばならない。

4)さらに、日本兵とともに玉砕・散華した朝鮮人慰安婦」は、どのように語るかと、私は考える。客観主義や実証主義という主観主義に制約された者は、記録されていないことは論じられないという不可知論に陥るが、それでは研究にはならない。
 その生き方、死に方を推し進めれば、「恨」に捕らわれ続けることなどあり得ないと言える。

5)加えて、「仲良く暮らしてきた」という伍長の言葉を見過ごすことはできない。朝鮮人慰安婦」は日本人「慰安婦」や日本兵とともに、中国人の上に位置していたのである。そして、朴永心は中国人「慰安婦」について、どのように思っていたのかと、私は問わざるを得ない。
 既述したとおり、李連春のいた「慰安所」では、一人の日本人、二人の朝鮮人、そして「中国東北地方からの女性が数人いて、現地で拉致された女性を含めると二十数人」であった(小著『アイデンティティと時代』一二八頁)。また、その「慰安所」は、女性が入れない「神聖」な「祠堂」の「四合院」を改築した建物であった。他方『波乱回顧』では「拉孟で最も立派な建物」を新築したと記されている(本論文2(3))。ここから、拉孟ではいくつかの「慰安所」があり、日本人リーダー、朝鮮人サブリーダー、その下の中国人という階級システムがあったと言える。これは、軍の直轄、周辺の半官半民的な(李連春は日本兵が警備・監視と述べている)、さらに民間という種類に対応している可能性もあり、『波乱回顧』では軍直轄の「慰安所」しか書かなかったと推論することもできる。
 そして、朝鮮人がこのような立場であれば、日本人が「仲良く暮らしてきた」ではないかと言うのも一理はある。勿論、上の統治者と中間管理の立場では違うが、下の被支配者とも違うことを認めなければならない。
 なお中国人「慰安婦」については、『異域の鬼』においても、「広東ピー(売春婦)」(一一九頁)程度で、言及が極めて少ない(この点は次回に取りあげる)。

6)朴永心の証言も、西野の評価も――仮に信頼性が確かめられたとすれば――、それは一つの立場によるものであり、私は尊重する。
 その上で、私は現実は多面的多元的で、史実もそうであると認識する。つまり、朴(そして西野)とは異なる立場もある。最後に脱出した者と、脱出せずに自覚して死を選んだ者との違いは明白である。
 だからこそ、玉砕・散華した朝鮮人慰安婦」の声なき声に傾聴し、証言できない者の想いを洞察し、提示する。
 そして脱出した者について、脱出しなかった者から言えば、“結局は、半島ではできなかった人の上に立つ出世が中国ではできるし、しかも金儲けもできるので、はるばる雲南まで来たのだな。八〇過ぎてもなお「恨」というのは、どれも敗北で失ったからだ”となるだろう。事実『戦場の「慰安婦」』では、朴永心が「お金が稼げる仕事がある」という「巡査の言葉にのせられ」たことや(一九頁、二八頁)、将校がたびたび「外に連れ出し」、「慰安所近くの寿司屋」にも行ったこと(二九頁)が記されている。
 また守備隊では、彼女と「仲良く」していた日本兵は一人もいなかったのだろうか? いたとしたら、彼はどう思うだろうかとも考えさせられる。
 このようなわけで、私は加害側の民族で、戦争を遂行した者の息子の世代に当たり、その立場で加害を認識し、反省と謝罪の必要性も自覚した上で、死者の声なき声をも傾聴すべきと考える。そして、「尊厳」というなら、「恨」に依存するよりも、玉砕・散華した者の生と死にこそ「尊厳」が凝縮されていると認識する。

(6)玉砕と脱出―極限状況における崇高な阿吽の呼吸(暗黙の合意)

1)玉砕前、拉孟守備隊から本隊に状況報告のために「脱出」の命令が木下中尉、里美兵長、亀川上等兵の三名に出された。その一人の里美の証言を、品野は『異域の鬼』でまとめている。その中で「慰安婦」に関しては、次のように記されている(四〇五頁)。
 「私(里美―引用者注)は弾のはいっとらん拳銃と軍刀だけしか持たんかった。手榴弾もなかった。脱出命令を受ける前、本部の下士官が〈慰安婦を殺せ〉といってきて昇汞(消毒用の劇物―引用者注)の包みを一〇個ほどくれた。〈おなごをみな殺してしまえ、握り飯のなかに毒をいれて食べさせろ〉という。
 〈そんなバカなことをすんな。どうせ助からんし捕虜になってもええじゃないか〉といったら〈それならお前が死ね〉といわれた。私は女に毒薬をやらず、水の溜まったドラム缶の中に捨てた。朝鮮の女は〈捕虜になったがまし〉といっとった。女を殺せなんちゅう命令など腑に落ちんことが多かった。〈金光大隊長が生きとったら、そんなことはいわんじゃろ〉と私はいった」
 「昇汞」を飲ませて殺害する命令が、極限状況において出されたが、現場では必ずしも実行されなかったことが分かる。
 さらに里美が従わなくても、下士官が「それならお前が死ね」と言うだけであったのは、彼の黙認を示唆している。それは悲惨で残酷な戦場においてなお保たれていた人間性の証と言える。

2)この命令は、玉砕直前で、昇汞が、自決用に全員「二包あて」渡された時(二八四頁)と思われる。それは動けない傷病兵のためで、それ以外は最後の銃剣突撃を行い、戦死するので、謂わば無理心中の如きものと言える。
 それ以前、金光隊長は「大きな砲弾」の直撃で壕が崩壊し、生き埋めになり(二七六頁)、この時は真鍋大尉が指揮していたが、毒殺の命令が、彼からか、それともその下の者によるかは不明である。
 いずれにせよ無理心中的な「慰安婦」毒殺の命令は出されたが、必ずしも現場で実行されなかったことは、日本兵と「慰安婦」の絆の強さによるものと言える。

3)木下、里美、亀川たちが九月七日早朝に脱出しようとした時、「ひとかたまりの兵隊たちが〈お前たちばかり逃ぐるちゅうことはいかんじゃなか〉と詰め寄った」という(四〇五頁以降、以下同様)。
 これに対して木下中尉は「上司の命令」で「連れて行くわけにはいかん。ついてくるも、いかんも、ついてくればしょうがないばってん」と答え、黙認を示唆した。そして、木下の黙認は、部隊の黙認でもあったと考える。
 里美たち三人に「おとこ、おなごで七、八人」(女は三人で全員日本人)が「ついて」いったと記されており、合計十名という人数が守備隊で動けば、知られないはずはない。
 従って、残った兵隊と「慰安婦」は玉砕を覚悟して黙認したと考えるのが現実的である。ただし、この限界状況における阿吽の呼吸(暗黙の合意)は伝えられず、ただ洞察するしかない。

4)脱出した後、里美たちは「高さが二〇メートルもある草むらの崖を飛び降り」、川幅が「四〇メートルくらい」で「胸まで深い」流れを渡り、対岸に着くと、中国軍に発見されて銃撃を受け、みな「バラバラ」になった。
 里美は夜になり、中国人に会い、泊めてくれと頼むと(彼は中国語が話せた)、「警戒が厳しいからといって牛小屋に寝かせてくれ」、また「間道」を教えてくれた。
 その後、里美は他の者と「昆明の収容所で会った」という。

5)また、鳥飼一等兵(後に兵長)に、品野が「拉孟玉砕を書いた戦記ものに、金光守備隊長の仲人で相愛の兵と慰安婦が結婚して玉砕したなどと書いたものがありますが、そんなことがあったでしょうか」と質問すると、鳥飼は、次のように答えた(『異域の鬼』三一四~三一五頁)。
 「そんな事はあり得ん。また金光守備隊長を神様のように書いとるが、あれも嘘だ。金光少佐は壕の中ばかりにいて、戦死した時も壕のなかにはいっとったという話だ。実際に陣頭指揮をとって戦ったのは真鍋大尉だ。きびしい人だったが、兵から尊敬され、三カ月も持ちこたえたのは真鍋大尉のみごとな指揮統一があったからだ。」
 鳥飼は金光隊長を低く評価しており、里美とは異なる。ただし、品野は早見上等兵の証言を踏まえて、次のように述べている(三九三頁)。
 「兵から叩き上げた実直で優しい金光少佐は砲兵の兵隊に敬愛されていた。彼はここでは一番の年長者でもある。惨めに死んでゆく若い部下をみすみす見殺しにしていかねばならぬ苦渋の中で、自分も誰に看取られることもなく骨を拉孟に埋めた。その厳粛な『事実』こそが、金光少佐の本望ではなかったか。どんな百万言の賛辞を並べられるよりも…。」
 鳥飼は直接「陣頭指揮」を受けた真鍋を高く評価しているのであり、全体を見渡すことができれば、隊長としての金光の評価が改まるかもしれない。叩き上げの経験豊富で度量の大きい金光隊長、厳しい現場指揮官の真鍋大尉の組み合わせが、拉孟守備隊の粘り強い強靱さをもたらしたと言えよう。

6)先述の「金光守備隊長の仲人で相愛の兵と慰安婦が結婚して玉砕した」という点についても、一概に否定できない。それは「手榴弾で自決した者もおり、そば杖を食ったらしい慰安婦の死体もあった。兵と仲良しになっていた慰安婦もいたから、一緒に死んだのかも知れない」という可能性を捨てきれないからである(三二四頁)。
 そもそも守備隊において正式な「結婚」ができるわけがない。「戦闘がひどくなると、慰安婦たちも兵舎のある陣地で兵たちと一緒になって炊事の手伝いをしたり患者の世話をした。そんな慰安婦ともいちゃついていた将校もいたが、あとは女なんか構っていられなかった」という(三一九頁)。ただし絶望的な状況下で、身を挺して必死に奮闘する「慰安婦」と兵士の仲を、「実直で優しい金光」が認め、励ますことはできる。そして周囲も暗黙に祝福する。ここでも限界状況における阿吽の呼吸が洞察できる。
 さらに、そのような場合、この「結婚」は、セクシュアルでも、生殖的でもなく、ひたすら精神的で、崇高でさえある。

(7)悲劇に接して覚えるわれわれの満足は、美の感情ではなく、崇高の感情である。かかる感情の最高度のものである―ショーペンハウアーより―

1)これまで雲南の戦場で「慰安婦」が日本兵と最後まで戦い抜き、玉砕した者がいたことを述べてきた。これについて、千田夏光は『従軍慰安婦 正編』(三一新書、一九七八年)の第五章で、「中国軍に投降した朝鮮人慰安婦が伝えたもの」であるとして、次のように述べている。
 拉孟の守備隊長は、「慰安婦」は「兵隊」ではないから「後方へさがって貰いたい」との指示したが、これに対して、彼女たちは「私たちも兵隊さんのお手伝いします。お国のためと思えばこそ、ここまで来て兵隊さんを慰めてきたのじゃないですか」と答えた「らしい」(一三五頁)。その時、「慰安婦」は十数人いて、その「うち少なくとも七人」は「兵隊さんと最後まで一緒にいます」と言ったらしい(同頁)。
 さらに戦況が悪化したため、守備隊長は「軍人でないお前たちに命令はできないが、これは世話になった兵隊にかわって、守備隊長としての勧告というより頼みだ」と告げたが、彼女たちは「兵隊さんたちと最後まで一緒にいさせて下さい。私たちも兵隊のつもりです」と応じた(一三六頁)。
 そして玉砕を前にして、九月七日、動けない傷病兵に自決命令が下ったとき、日本人「慰安婦」が朝鮮人慰安婦」に「あなた方はお逃げなさい。何も日本に義理だてることはないわ。命を大切にしてお国に帰りなさい。同じ東洋人だから中国兵もひどいことしないと思うわ。私たちは兵隊さんたちの後をここで追うから」と勧め、その後「突入した中国兵が数えたときその遺体は七体だったという」(一三八頁)。

2)千田は、日本人「慰安婦」が玉砕し、朝鮮人慰安婦」が「投降」したと記しているが、品野は、生存者の聞き取りから、日本人「慰安婦」にも脱出した者がおり、この説に異論を出している。
 しかし、これまでブログで取りあげてきた記録写真では、朝鮮人慰安婦」の遺体と説明されており、朝鮮人慰安婦」も玉砕・散華した可能性がある。
 この点に関して、前掲『波乱回顧』では、「全く日本婦人と変り、兵の服を着用し炊さんに握り飯つくり、患者の看護等に骨身を惜しまず働いて呉れたが、気の毒なことであった」とある。「日本婦人と変り」とは、日本人「慰安婦」が「日本婦人と変り」とだけでなく、朝鮮人慰安婦」がそのように変わったとも読める。
 また、第五飛行師団第四飛行団飛行隊長小林憲一の証言では、「もんぺ」のように見える「軍袴」を着た「慰安婦」がいたという(西野『戦場の「慰安婦」』一〇三頁)。そして朴永心も「日本軍の防暑服」を上着にしていた語った(西野一〇四頁)。
 他方、アメリカ軍の医療スタッフの治療を受けている朝鮮人慰安婦」はワンピースを着ているが、「同じ壕にいた兵は全員玉砕したという」(写真①や②)。つまり、最後まで戦い抜いた女性は、「兵の服」を着た者だけでなかったことが分かる(たとえ最後に脱出したとして、その重みは変わらない)。
 ここから、私は「兵の服」を着た女性は下士官クラスで、そうでない女性を指揮していたと推論する。そして、後者には朝鮮人慰安婦」がいたと考えられる。即ち、日本人と朝鮮人の中で志願した女性が玉砕したのである。

3)千田は、女性たちが兵隊たちと共に玉砕した理由は「“テンノウヘイカノタメ”的なものに殉じた」と解釈する(『従軍慰安婦 正編』一三九頁)。確かに「お国のため」という言葉が引用されており、そのように表現されたのであろう。ただし、それはまさに身を以て兵隊たちと一心同体の如き体験を実感したことに裏打ちされており、決して空虚なスローガンではなかったと考える。
 他方、品野は聞き取り調査では「天皇陛下万歳と叫んで死んだ」者はいたかと必ず質問し、ほとんどいないという証言を得る(『異域の鬼―拉孟全滅への道―』二六八頁、三六三頁、三七〇頁など。「天皇陛下万歳と叫んで死んだ」のは士官学校出身者くらいという者もいた)。ここでも二人の相違が現れている。
 また、千田が三一新書を「改訂版」とした理由を「かつて従軍慰安婦の草刈り場にしていた朝鮮へ取材に行き、眼をおおうキーセン観光にソウルの街でたちすくんだ。キーセン観光に狂う日本人に、往事の軍刀を鳴らしまくる軍人の姿が重なって仕方がなかった。この思いを『続・従軍慰安婦』にいれたが、考えていくと、これはレポートなのでありレポートにおいて思いは蛇足である。/従ってその部分を削除した」と説明している点も注意しなければならない(『従軍慰安婦 正編』一〇~一一頁。強調原文)。それは、これにより、半島の問題が捨象されたためである。
 私は「慰安婦」も「キーセン観光」も、加害の側の日本人とともに、それに応じて女性を動員し、提供する半島人の追従、自発的服従という問題も注意しなければならないと考える。千田は「思い」と表現するが、問題意識を自主規制したとも捉えられる。
 このようなわけで、私は、両者の見解を他の資料と比較検討し、多角的に考え、史実に迫るように努める。

4)品野は多くの関係者の証言を収集し、『異域の鬼―拉孟全滅への道―』にまとめた。
 私は『アイデンティティと戦争』で述べたように、品野の著書を評価する。防衛研修所戦史室編「戦史叢書」(朝雲新聞社)、松井連隊長『波乱回顧』、雲龍会編『拉孟・騰越玉砕の実相』、楳本捨三『壮烈拉孟守備隊』(光文社NF文庫)等々より詳しく、史実に迫っていると言える。そして私は彼ともに現地調査やフォールド・ワークも行った(途中で現地当局により中断されたが)。
 しかし、品野は日本共産党筑後援会の会長を務めるなどの思想的政治的な立場・視点があり、それが歴史を捉えるときの選択や判断を規定している(偏見とまでは言わず、また『異域の鬼』の記述を全面否定するつもりもない)。明確な視座は事物を捉える上で、むしろ必要であり、私もそうであるように努めており、それ故、私は品野の選択や判断を尊重するが、その上で、彼とは異なる考え方を提出し、より多角的に史実を検証するように努める。

5)品野は「日本人慰安婦が死に化粧をして、青酸カリをあおり、朝鮮娘を逃がしたなどと書いた戦記は嘘っぱちだ。誰もがいうように青酸カリなどありはしなかった」と述べている(『異域の鬼―拉孟全滅への道―』三二四頁。三一五頁や三二四頁も参照)。また、「日本人慰安婦朝鮮人慰安婦を逃がし、自分らは死に化粧して自決した」ことは「軍国美談調の伝説」であり、「五人ほどだった日本人はほとんど助かっていることになる」から、その「伝説」は「崩れ去った」と指摘している(三四九頁)。
 ただし「ほとんど助かっている」ことは、助からなかった、換言すれば玉砕した日本人女性もいた可能性があることを意味している。即ち、自分は「死に化粧」して自決するが、その前に朝鮮人慰安婦」(サブ・リーダー)を逃がした日本人「慰安婦」(リーダー)がいた可能性を意味している。金春子のいう「おかあさん」という女性である。
 「慰安婦」といっても明確に区分されてはおらず、客はとらずに「慰安婦」たちを管理していた女性(「おかあさん」やそれに準ずる存在)もいた。そのような地位で、前記の「五人ほど」には含まれない日本人女性が、蛇の道は蛇で、中国側と密かに連絡をとり(売笑は本来的にグレーゾーン)、「死に化粧」して自決する際に、朝鮮人慰安婦」を逃がした可能性は否定できない。
 なお、品野は、そのような美談は、その基となる生存者の手記に既に美談が含まれており、その「心情はわかるような気がする。(略)あえてそれを否定したくないし、死んだ将兵の最後は潔く書いたやるのが戦友たちの『つとめ』なのである」と述べている(三二五頁)。私も、その「心情」を分かるように努め、そして伝える。

6)「美談」に過ぎないという品野自身、先述したように「手榴弾で自決した者もおり、そば杖を食ったらしい慰安婦の死体もあった。兵と仲良しになっていた慰安婦もいたから、一緒に死んだのかも知れない」と述べている(三二四頁)。少数でも、このような例が証言されているのである。
 また千田は「昼間最前線で血みどろになって闘い、鮮血まみれとなって帰ってくる兵隊たちを夜になると慰める」とあるが、「彼女らの衣服もまた、兵隊たちのしたたらせる血糊で赤く染まっていたという」と記している(前掲『従軍慰安婦 正編』一三六~一三七頁)。この「慰める」は、「慰安婦」としての営為を超え、セクシュアル以上の、極限状況における身心的な崇高さを思わせる。
 決して欲望に溺れてはいない。そうであれば内側から崩壊し、陥落する。それ故、この当該部分を、私は厳粛に読む。
 「士は己を知る者のために死す。女は己を見て悦ぶ者のために化粧する」というが、これまで述べてきた「慰安婦」は「己を見て悦ぶ者のために化粧し、死す」であると認識する。たとえ少数であっても、その生き方、死に方に注目すべきである。
 そして仮に彼女たちが生きていたら、今の「慰安婦」の発言に、どう言うだろう。
 被害の証言を軽視していいというのではない。より多角的に歴史を考察することにより、より現実的な理解を得ることができる。微妙な細部を捨象してはならない。個々に異なる人間を理解するには、細部の微妙な差異が重要である。

7)いよいよ最後=玉砕に向かうという、激戦の限界状況においても限界の極致という最終段階で、日本人・朝鮮人の民族を超え、各自の実存が下した決断が玉砕であったと、私は捉える。
 各々文字通り身を以て日朝/日韓の強い絆を示した。口先だけで、あるいは下心を抱いて日朝/日韓の友好を説く者は、心してこの史実を正視すべきである。
 ショーペンハウアーは「悲劇に接して覚えるわれわれの満足は、美の感情ではなく、崇高の感情である。いな、それは、かかる感情の最高度のものである」と提起した(ショーペンハウアー/塩屋竹男他訳『全集』第六巻、白水社、一九七三年、三七八頁)。彼は詩を論じるなかで、こう述べたが、雲南の日本軍守備隊で兵隊(半島出身者もいたかもしれない)と日本人・朝鮮人慰安婦」は、それを実践したと、私は考える。黙祷

(8)歴史が評価を下す―日本兵と玉砕・散華を選んだ「慰安婦」の偉大さ
           ―ソクラテス、イエスパスカル等から

1)「朝鮮人慰安婦は、欺されて連れてこられた純情な素人娘が多かった」(『異域の鬼』八二頁)と述べられている。これは雲南に限らず、金春子もその一人である。
 そして、雲南において玉砕に向かう守備隊で「本当に頭の下がることがあった。それは、砲弾と雨のなかをくぐり、乾麺麭の空缶にいれた将兵の握り飯を、二人一組になって運ぶ朝鮮人慰安婦の姿だった。/炊事場は、ずっと山の下のクルミ谷へ降りる中間の横穴にあった。その辺りにも敵弾が撃ち込まれている。少しでも煙が出ると直ちに迫撃砲の集中砲火をうけるから、夜、火の明かりが漏れないように横穴の入口に軍用毛布を幾重にも張って、煙にむせながら炊事をしている。当時はまだ炊事軍曹がいて、兵たちが飯を炊き各隊から兵隊が取りに行っていた。一線がひどくなってからは慰安婦も運搬してくれたが、いよいよ混戦になってのちは食事もほとんど届かなくなり、小豆の塩煮缶詰などでわずかに食いつないだ。」(『異域の鬼』二六七頁)。
 純情で騙され、それが続いて愚かな結果になったと否定できるだろうか?
 タナトスに魅入られない限り、誰も死を望まない。しかし、それに向かっていることが分かっても、なお真面目に勤勉に務めを果たす者がいる。それは愚直と言えるが、狡猾に立ち回る者より、むしろ尊厳があり、偉大である。

2)確かに、金春子の場合、以下のように、①故郷の両親に累が及ぶことを恐れ、また②勲章などの名誉に引かれている(ただし金儲けや出世のためではない)。

 ①『女の兵器』一九〇~一九一頁
 危険な前線に巡回に出る前にピストルを渡され、それで応戦し、最後の一発は「耳のところにあててひき金をひ」けと自決に使うように指示され、「まあ、怖い」と言うと、「怖くても仕方ない。そう思った時はあの世に行ける。おまえたちは、皆、やまとなでしこなのだから、もしもの時も敵の捕虜になるわけにはいかないのだよ」と言われた。
 彼女は「そうね。捕虜になったら、くにのお父さんやお母さんは、憲兵隊にひっぱられるんでしょう」と言うと、「そうだよ」と答えられた。
②同前、九六頁以降
 金春子が担当の長井軍曹に「私たちは兵隊さんと同じなのですか」と尋ねると、彼は「そうだ。まったく同じだ。あるいは兵隊よりも、もっと大事な存在かも知れんな」と答えた。
 そして、彼女が「それじゃ、手柄をたてたら勲章もらえますか」と聞くと、次のような会話となった。
 「勲章ねえ」
 さすがに長井軍曹は困ってしまったらしく考えこんだ。
 「私、勲章をもって、故郷に帰りたいわ。そうすれば皆感心してくれるわ」
 「そりゃあ、立派に戦って戦死か負傷でもすれば勲章ももらえないことはないと思うがね、女の身ではなかなか難しいかもしれないなあ。しかし、金の方はうんと儲かるぞ。一生懸命働けば、一年で千円や二千円は貯金ができる。それを故郷の両親へ送金することもできるのだから、安心して働くがいいさ」
 私はびっくりした。愛国奉仕隊へ入るというのだから、無給か、兵隊さんと同じくらいに安い給料で働かされるのだとばかり思っていたからである。
 「そうさ、儲かるさ。みんな、金持になって、中には、支那の北京や、天津へ行って、その金で料理屋をやり、出世している者もあるよ。ちゃんと故郷から両親を呼び出してな、立派にやってるよ」
 私はそれほど出世したいとは思わなかった。
 それに故郷を離れて暮らすのは、何と言っても淋しいことだった。

 これを、平和な時代に生きる者が、彼女は飴と鞭で統制されたと片付けていいだろうか? 巨大な複合的暴力が暴走する中で、彼女には選択の余地はなかった。しかし、その運命を、彼女は前向きに受けとめ、真面目で勤勉であった。

3)このような「慰安婦」は誠に健気であり、まさに「本当に頭の下がること」である。そして、私はパスカルの「考える葦」を想起する。
 「人間は自然のうちで最も弱い一茎の葦にすぎない。しかしそれは考える葦(le roseau pensant, the thinking reed)である。これを押し潰すのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひと滴でも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれを押し潰すときにも、人間は、人間を殺すものよりも一そう高貴だろう。何故なら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。しかし、宇宙はそれについては何も知らない。」(『パンセ』断章347)
 「人間の偉大は、自分が悲惨であると知る点において偉大である。樹木は、自己の悲惨であることを知らない。それ故、自分の悲惨を知ることは悲惨だが、しかし、偉大であることは、まさに悲惨であると知ることなのである。」(『パンセ』断章397)
 彼女たちも自分が弱く悲惨であると知っていたはずである。その上で、生きる限りは前向きに真面目に勤勉に生き、そして死に向かって進んだ。

4)歴史を振り返れば、自覚して死に向かった生き方の偉大さは、枚挙に暇がない。
ソクラテスは「真の哲学者が死ぬことを心がけているものであり、彼らが何びとよりも死を恐れないものであるということは本当なのだ」と述べ(田中美知太郎、池田美恵訳『ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン』新潮文庫、一九六八年、一二六頁)、実際、衆愚政治の大衆裁判で自決の判決が下されると、厳粛に受け入れた。
②イエスは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(「ヨハネ福音書」一二章二四~二五章)と説き、実際に十字架の処刑へと進んだ。
仏陀の前世の話を集めた『ジャータカ』では、王子の時代、飢えた雌トラに出会い、雌トラには七頭の子トラがいるが、このままでは生き延びるために我が子を食らい、さらに他にも犠牲者が出るかもしれないと見通し、崖から身を投げ、自らを雌トラに与え、七頭の子トラの命を救う(輪廻転生で我が身を犠牲にした王子は仏陀に、七頭の子トラはやがてその弟子に生まれ変わる)と伝えられている。
④「我に自由を与えよ。さもなければ死を与えよ(Give me liberty, or give me death)」という、アメリカ独立戦争を指導したパトリック・ヘンリーの発言は、圧倒的で冷酷なナチス・ドイツ軍に抵抗するレジスタンスやパルチザンの合言葉になった。これをジャン=ポール・サルトルは「私は自由であるべく運命づけられている」、「われわれは自由へと呪われている/われわれは自由の刑を宣告されている」と表現した(松浪信三郎訳『存在と無現象学存在論の試み―』第三巻(サルトル全集第二〇巻)人文書院、一九六〇年、二九頁、一二六~一二七頁。伊吹武彦訳『実存主義とは何か―実存主義ヒューマニズムである―』(サルトル全集第一三巻)人文書院、一九五五年、二九頁)。

5)このような死生観の精神史を踏まえると、玉砕・散華を選んだ「慰安婦」に偉大さを見ることができ、それは出撃・散華した特攻隊員に比肩すると考えている(いずれにも朝鮮人が含まれており、民族を超えている)。それを日本帝国主義軍国主義に還元して、誤りや無意味と見なすとしたら、レジスタンスやパルチザンに多くいた社会主義者共産主義者を、東欧・ソ連の崩壊に帰結したイデオロギーや政治体制に還元して、誤りや無意味と片付けることと同然である。一人一人の生と死は何ものにも還元できない。

6)そして、雲南で玉砕・散華した朝鮮人慰安婦」について言えば、今や無言の彼女たちと、いつまでも「恨」に囚われ、叫び続ける元「慰安婦」との対比では、その評価を歴史が下すことになる。
 儒教科挙の歴史で形成された文化は、修辞が発展しすぎ、舌先三寸のずる賢さを賢さと見なし、正直者がバカを見る偽善を助長した(アジア的停滞)。愚直で騙されたが、その運命を受けとめて実直に頑張った純情で一途な生き方を省みず、恨みつらみを言い続ける者を殊更に取り上げ、政治や外交に利用・悪用することは、「恨」というコンプレクスを歴史や伝統にして、民族を傷つけ不幸にするだけである。