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茅ちゃん日記

世の中のこと、思うことをつづります

転載/// 伊豆の聖地----三嶋、来宮、伊豆山、三つの信仰が示す遠い南方の島々と渡来民の記憶

聖地観光研究所 LEYLINEHUNTING より転載させていただきます。

ありがとうございます!

 

伊豆の聖地

 

目次

1.遠い南方の島の記憶と『三宅記』

2.火山信仰と三嶋信仰の聖地

  ●白濱神社(伊 古奈比咩神社・いこなひめじんじゃ)
   --縄文祭祀遺跡を背負う伊豆の守護神を祀る社--
  

  ●大室山
   --神様の足跡に安置される地蔵が意味するもの--

  ●一碧湖
   --赤牛伝説と弁財天--

   ●小室山

  --大地の営みを一望し、古の人々の心を追体験する--

   ポットホール
   --溶岩と海の出会いが生んだ「珠玉」に出会いに--
  城ヶ崎海岸
   --溶岩と海の出合いが生んだダイナミックな景観から火山を学ぶ--

  ●稲取・江戸築城石
   --伊豆の大地の力が凝縮した石の秘密--

   稲取の石垣の家並みと石仏
   --全国の石工が伊豆に残した痕跡--
  どんつく神社
   --縄文の五穀豊穣・子孫繁栄の祈りを伝える個性的神社--
    

3.伊豆辺路と伊豆山信仰の聖地

  伊豆山神社
   --富士山と繋がる両界曼荼羅の聖地--
  

  ●城ヶ崎ピクニカルコース・城ヶ崎自然研究路
   --修験のルートを彷彿させる懸崖の道--
  

   来宮山東泉院
   --役行者ゆかりの古刹--
  

  ●河津温泉堂
   --伊豆辺路修験拝所--
   

  ●三穂ケ崎遺跡
   --空海伝説の残る岩屋と閼伽水--
  
  ●竜宮窟・盥岬・遠国島
   --南伊豆沿岸部に連なる祭祀遺跡--
  
  石室神社
   --役小角開創の由来と不老不死伝説--
    
4.来宮信仰の聖地   
   熱海来宮神社
   --谷を覆う宇宙樹の聖堂--
  

  ●音無神社・葛見神社
   --頼朝と八重姫のロマンスが伝わる社に残る巨木・来迎神が宿る大楠--

  ●八幡宮来宮神社
   --白濱神社と地底世界で通じる太古からの聖地--

  ●八百比丘尼像 ・善應院
   --不老不死伝説と「稲取」の地名の深い関係--
   河津来宮神社(杉鉾別命神社)
   --色濃く残る太陽信仰と隠された神--

 


 

1.【遠い南方の島の記憶と『三宅記』】

 太古、伊豆は太平洋のはるか南に浮かぶ島々だった。

 それがフィリピン海プレートに乗って北西へ移動するうち一つの大きな島となり、ついに本州とぶつかって今の伊豆半島になった。このプ レートの衝突が地殻の底に眠っていた力を呼び覚まし、マグマを噴出させた。そして、富士山や箱根、さらに伊豆諸島の島々を生み出した。

 遠い南の島の記憶と湧き出した大地の力、それは、伊豆に独特の自然をもたらした。

 濃密な緑としっとりとした空気、大地の躍動の証 である温泉や火山地形、深い谷を穿つ川、荒々しい磯と真っ白い砂浜……この土地を愛した川端康成が「伊豆は南国の模型である」と賞賛した ように、伊豆は日本離れしたエキゾチックな雰囲気に溢れている。そんな自然が醸し出す魅力は、太古から多くの人間を伊豆に引き寄せてき た。

 大地から湧き出す力と太陽の力が交わる場所で祭祀を行った縄文の人々、変化に富んだ海岸線を辿って人智を越えた能力を掴もうとした修験者たち、不老不死の手がかりを求め て伊豆に辿り着いた人々……彼らの痕跡は、「聖地」として今に残り、神話に語られる神々が、それぞれの 聖地の個性を物語っている。

 昭和の文士や現代のアーティストたちが伊豆に惹きつけられてきたのも、彼らが古の人間たちと同じ感性を持っ ていたからだろう。

 鎌倉期に成立した伊豆地方の神代記である『三宅記』も伊豆の自然をよく捉えており、また伊豆の神秘的な歴史を伝えている。

 『三宅記』は三部からなり、第一部では「島焼き」という国創りの神話が描かれている。

 天竺に生まれた王子(三嶋神)が、継母の謀略によって父の怒りを買って国から放逐され、高麗を通って、孝安天皇元年に日本にやってく る。そして富士山に登ると、富士大神から富士山南麓の土地を安住の地として与えられる。しかし、この土地では狭く、新たに海底から焼ける 岩をつかみ出して、島を創ることにする。これが「島焼き」とされる。

 天竺の王子は、東海にある日本に土地を得て、そこに安住することを伝えにいったん天竺に帰国する。そして、再び海を渡ってやってきた 際に、上陸地の丹波で翁媼と出会う。この翁は天児屋根命で、「タミの実」を王子に渡し、さらに自分の三人の子、若宮、剣宮、見目を眷属と して王子につけて伊豆へと向かわせる。

 孝安天皇21年、王子は三人の眷属、さらに龍神、雷神とともに「島焼き」を行ない、七日七夜で十の島を生み出した。そして、島々には 后を配した。

 この第一部は、まさに火山活動によって海底から島ができる様子を伝えている。富士の大神から土地を得たというくだりは、伊豆半島が本 州と衝突して富士山を生み出した地質学的な事実にも符合する。また三嶋神が天竺からやってきた王子であるというのは、秦の始皇帝の時代に 東海にある蓬来山を目指した徐福の伝説を連想させる。徐福伝説は日本各地に残るが、丹波は上陸地として有力なところであり、紀伊半島の突 端の新宮にも徐福伝説が色濃く残っている。伊豆のほうでは八丈島や富士山麓に同じく徐福伝説があり、『三宅記』の第一部との符合が多いこ とが興味深い。

 第二部では、三嶋神が箱根で大蛇(龍神)を退治し、囚われていた三人の娘を后にして三宅島に迎える話が記されている。

 そして第三部では、三嶋神と壬生御館(みぶのみたち)との出会いから、三嶋神が三宅島から白浜に渡るくださりが綴られている。

 『三島記』における逸話は、そのまま伊豆半島と伊豆諸島に残る古社の構造に色濃く残っている。

 今でも、伊豆の神々(自然)はたくましく息づいている。伊豆の聖地を訪ね、神々の息吹に触れれば、生きる力が漲り、大自然と一体に なった無上 の安心感に包まれる。そんな伊豆の力漲る聖地を紹介しよう。

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2.【火山信仰と三嶋信仰の聖地】

 『三宅記』に記された、伊豆の創世神話の神である三嶋神を祀る三島神社は伊豆でもっともポピュラーな神社だ。

 伊豆半島東海岸に面した三島神社の多くは、三嶋神ゆかりの地である三宅島を仰ぐものが多い。また、内陸に鎮座する三 島神社は遠く三嶋大社を 拝する方向に正対しているものが多い。それだけ、三嶋神・三嶋信仰へと繋がった火山信仰が強かった証拠ともいえる。

 また、この項では便宜的に三嶋信仰と来宮信仰、伊豆山信仰と分けているが、三嶋神が秘めた渡来民の記憶は来宮信仰に通底しており、また三 嶋信 仰と伊豆山信仰は山岳信仰という側面から密接に通じている。

 古来、伊豆は特別な土地とされてきた。それは、ときに火山の噴火として神の怒りを露わにし、また黒潮に乗った「異人」たちが漂着し て、彼らの神をもたらしたり、彼ら自身が神と崇められるようになったりしていたからだろう。

 延喜式内社は全国に2861ヶ所あるが、そのうち伊豆の国には92ヶ所が記されている。全国的にこれほど密集している場所は他にな い。また、宮廷に出仕していた亀卜を行う卜部は、対馬壱岐、伊豆の三ヶ国だけが認められていたが、それも伊豆という土地の聖性の高さを 物語るものだろう。ちなみに、伊豆に亀卜の方法をもたらしたのも天竺の王子=三嶋神と伝えられている。

 まずは、そんな伊豆の火山信仰と三嶋信仰に関わる聖地を見ていこう。

 

 

白濱神社(伊 古奈比咩神社・いこなひめじんじゃ)
  --縄文祭祀遺跡を背負う伊豆の守護神を祀る社--
    shirahama 白濱神社の正式名 は伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)。主祭神は伊古奈比咩命で、さらに伊豆創世神話に登場する四柱の 神(三嶋神、若宮、剣ノ宮、見目(みめ)命)が祀られている。

 『三宅記』に記された伊豆創世神話は二段階に分かれる。まず富士の大神が駿河湾の底から焼ける大地を引き上げて伊豆半島を作り出し(国 焼き)、さらに富士の大神から伊豆半島を譲り受けた天竺の王子(三嶋神)が、富士山から土をいただいて海の中に島を作り(島焼き)る。こ の三嶋神の島焼きの際に協力したのが、若宮、剣ノ宮、見目(みめ)命の三柱の神々。伊古奈比咩命は三嶋神の后神とされている。

 伊豆創世の神々は、はじめ三宅島に祀られたがその後白浜に渡り、ここに祀られる。さらに三嶋神のみが白浜を離れて現在の三嶋大社遷座 する。主人のいなくなった白濱神社では后である伊古奈比咩命が主祭神となったと伝えられている。

 三嶋神の本后は神津島の守り神である阿波命(あわのみこと)と伝えられているが、平安時代に三嶋神と伊古奈比咩命を名神として祀った とこ ろ、神津島が大噴火を起こし、これに驚いた朝廷が阿波命も名神に列したと『日本後紀』にある。もしかすると、三嶋神だけが遷座したのは、本妻 の怒りに慄いたからなのかもしれない。

 白濱神社が位置する白濱海岸一帯は、目に眩しい白砂の海岸が続き、いかにも女神を祀る場所らしい明るく爽やかな雰囲気に満ちている。初 めてこの神社を訪れたとき、私は、伊耶那美命(イザナミノミコト)を祀った花の窟を真っ先に思い出した。花の窟も同じように海に近い場所 にあって太陽の眩しさが際立つ白い岩と敷き詰められた白石が特徴的ないかにも女神の聖地らしい場所だ。

 伊耶那美命は夫の伊邪那岐命(イザナギノミコト)とともに、「国産み」を行なって、日本の国土を形作ったと日本神話に伝えられている。 伊耶那美命は最後に軻遇突智(かぐつち)を生み、その際にホト(急所)を火傷して亡くなってしまう。伊耶那美命が恋しくてたまらない伊邪 那岐命は、伊耶那美命を追って黄泉の国へと降りていく。しかし、そこで醜く変わり果てた妻の姿を見て恐れをなし、慌てて地上に逃げ帰って くる。花の窟には、黄泉の国に寂しく取り残された伊耶那美命と伊邪那岐命に斬り殺された軻遇突智が祀られている。主人である三嶋神は遠く に遷座し、妃神の伊古奈比咩命と属神が残されている構図も、花の窟にとても良く似ている。

 三嶋神は、三嶋大社では事代主神(ことしろぬしのかみ)として祀られている。事代主は日本神話の国譲りの場面で登場する。天津神が出雲 に降り、国譲りを迫った時に、大国主の長男である事代主は、国を譲ることを承諾して海に隠れてしまう。一説には、もともとは出雲の神では なく大和の葛城山の神である一言主の神格の一部で、葛城山周辺を本拠とした賀茂氏氏神としていたとも伝えられている。伊豆半島の中部か ら南部にかけての広い地域は賀茂郡だが、これは大和の賀茂氏紀伊半島を経由して黒潮に乗って伊豆半島に渡来してきた名残りだとされてい る。伊豆の創世神である三嶋神が事代主と同体ということは、三嶋神の変遷がそのまま賀茂一族の渡来の変遷を物語っているともとれる。伊豆 創世神話と日本神話の国生みの逸話がよく似ているのも、そこに賀茂氏の介在を考えれば納得できる。

 なんらかの理由で本拠地の大和から離れた賀茂一族の一部は、紀伊半島を縦断し、さらに熊野から船出して黒潮に乗って北上し、はじめは伊 豆諸島の島々に上陸する。そこからさらに伊豆半島の南部に上陸して、ここを新たな本拠地とする。さらに人口が増えたためか、あるいは一族 の中で方針が異なったためか、伊豆半島を北上していく一派が出現する。それが三島周辺に移り住み、本来の氏神である事代主の名を復活させ た。そんな流れが見えてくる。

 そうした民族移動の痕跡を伝えるとともに、それとはまったく別の文脈になる太古の信仰をベースにしたマジカルな性格が白濱神社には隠さ れている。

 白濱神社は、参道から拝殿そしてその背後の丘の上にある本殿までが一直線に配置されている。神社は通常南面する形で本殿も参道も向けら れているが、白濱神社は南面していない。拝殿の西側を回りこむ階段を登って行くと、明るいイメージの拝殿前の境内とは対照的に熱帯性植物 の濃い緑に包まれた厳粛な雰囲気の中に本殿がある。この本殿の裏手は禁足地となっていて、磐座を中心とした縄文時代まで遡れる古代の祭祀 遺跡であったことが確認されている。この祭祀遺跡から本殿、拝殿、さらにその先の参道が一直線上に連なっている。本殿から直線の先を見た 時、方位角235°で正確に冬至の入日の方向を指している。これは、逆に鳥居から本殿を向くと夏至の太陽の昇る方向であることを意味す る。

 古代、冬至は一年の終わりであり、太陽の再生を願う日とされた。一方夏至は、一年のうちでもっとも太陽の力が強くなる日であり、この日 の太陽には、五穀豊穣や子孫繁栄を願うのが習わしだった。こうした太陽信仰は世界共通であり、今から5000年前頃に世界中でピークを迎 える。日本では縄文時代の初期から中期にかけて、太陽信仰を色濃く残すストーンサークルやドルメン、メンヒルといった巨石遺構が数多く建 設された。

 後に紹介するが、河津来宮神社縄文時代の段間遺跡(見高神社)と東西線上に並んで、春分秋分の太陽によって結ばれる関係にあるが、 伊豆半島にはほかにもたくさんの縄文遺跡が点在していて、後に創建された寺社と同様の配置構造となっているケースが多い。中伊豆の原畑遺 跡や修善寺の出口遺跡では、大規模な集落跡が確認されており、3000年~4000年前のものと推定される中伊豆町にある上白岩遺跡には 大きなストーンサークルを中心とした集落の跡が残っている。段間遺跡は神津島に産する黒曜石の集積地として栄え、ここから全国各地へ打製 石器の原料として黒曜石が運ばれた形跡がある。南伊豆町の洗田遺跡は、西に聳える三倉山をご神体山として拝し、その祭祀場の周囲に大きな 集落が形成されていた。

 太陽信仰が盛んな縄文時代には、黒潮の流れる海に突き出した伊豆は海上交通の要衝に当たり、進んだ文明の場所だったと考えられる。その 名残りがいまだに留められているといえる。

 ところで、白濱神社に見られる冬至-夏至ラインは、冬至の入日方向に真っ直ぐ伸ばしていくと、伊豆急行下田駅にぴったり当たる。下田駅 の方から見れば伊古奈 比咩神社は夏至の朝日が登る方向にあたり、伊豆の守護神の力を導き入れるような場所に設けられていることがわかる。古い街道が、こうした 太陽信仰と聖地のランドマークを意識していることは昔から知られているが、近代に入ってからも、鉄道の敷設に当たってこうしたレイライン を意識する事が多い。伊豆急行が観光客に愛されるのは、こうしたマジカルな仕組みと関係あるのかもしれない。

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大室山
  --神様の足跡に安置される地蔵が意味するもの--

oomuro  伊東市の郊 外に聳える大室山は、典型的なスコリア丘だ。毎年春に山焼きが行われ、全体が丈の低い明るい緑の草に覆われた台形の姿は周 囲から浮き上がって見え、伊豆のシンボルとなっている。私のようなウルトラマン世代なら、怪獣ヒドラの背後に聳えていた山というイメージ が強い。

 標高は580m余りが、まわりには遮るものがなにもなく、晴れた日には富士山から伊豆七島まで一望でき、また東京スカイツリーの姿まで 認めることもできる。この山の頂上は冨士山と同じように中心部が陥没した火口跡となっていて、その周囲はお鉢巡りのできる稜線となってい る。その稜線上には江戸時代初期の寛文年間に造られた五体の「五智如来地蔵」と製作年代がはっきりしない「八ヶ岳地蔵」が置かれている。

 五智如来地蔵 の由来には面白いことが書かれている。「寛文の初め(1663年)、相州岩村(神奈川県足柄下郡)の網元、朝倉清兵衛の娘が9歳で身ごもり、その安産を大室山浅間神社に祈 願したところ無事出産したので、『おはたし』と称して、真鶴石で五智如来像を作らせ、船で城ヶ崎の富戸港へ運び、富戸の強力兄弟が一体を 三回に分けて背負って現在地に安置したと伝えられる」。 さらに、この五智如来地蔵は浅間神社のご神体山である富士山を向けられていると も言い伝えられてきた。

 この五智如来像の由来は、素直には受け入れられない不思議なことだらけだ。まず、娘が9歳で身ごもるということが異常だ。仮にそういう ことがあったとしても、当時なら民間療法で堕胎するか、あるいは生まれた子を密かに流してしまうほうが通例だった。また、伊豆は有名な伊 豆石の産地で、大室山周辺でも石を切り出すことはできたのに、わざわざ真鶴から運ぶという点も違和感がある。「おはたし」という言葉も、 出産を喜ぶ言葉としてはどこか奇妙な印象を受ける。

 さらに、地蔵が富士山を仰いでいるという言い伝えも、実際に方位を確かめてみると富士山よりも伊豆修験の聖地の一つである葛城山を向い ていることがわかる。そもそも、大室山浅間神社に祀られているのは富士山の神様である木之花咲耶姫ではなくその姉の磐長姫で、大室山山頂 から富士山を拝すると磐長姫が嫉妬して、怪我をしたり不漁になるという伝承に矛盾している。日本神話では、地上を治めるために天界から派 遣された瓊瓊杵尊に、大山祇神が木之花咲耶姫と磐長姫という二人の娘を嫁がせようとしたが、瓊瓊杵尊は醜い磐長姫を送り返してしまい、こ のことが、不老不死をもたらすはずだった磐長姫を拒んだことで瓊瓊杵尊とその子孫に寿命をもたらすことになってしまうとされる。

 大室山の浅間神社は、承応三年(1654)に時の松平伊豆守によって建立された。浅間神社は富士山をご神体とするから、普通は富士山の 化身である木花咲耶姫が祀られる、その姉の磐長姫が祀られたということは、富士山を意識したのではなく、磐長姫の不死性を大室山に象徴し たものととれる(磐長姫の名の由来は、磐=岩は硬く盤石で永遠であると言う意味)。

 年代に注意してみると、五智如来像の創建は大室山浅間神社の創建から9年後で、ちょうど娘が身ごもった歳に符合する。これは、大室山 浅間神社の創建時に何かを願掛けし、それが9年後に「はたされた」ことを暗示しているのではないだろうか。

 五智如来像をここに安置した朝倉清兵衛は由来書きでは「網元」とされているが、他の資料を当たってみると、小田原にある長興山紹太寺の 供養塔にその名が見られ、網元ではなく真鶴石を扱う石材の業者であったことがわかる。ということは、自らが扱う石材をわざわざここまで運 んできて安置したことになる。

 五智如来は大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就の五体の仏を指し、これは密教金剛界曼荼羅を構成する。金剛界大日如来の知恵の世界 で、普遍堅固な宇宙を意味する。磐長姫(いわながひめ)を祀り永遠性を象徴する大室山に金剛界曼荼羅を重ね、9年目にして果たした何かを さらに堅固なものにしようというさらなる願掛けともとれる。

 五智如来像が向いているのは、伊豆修験の聖地の一つである葛城山だが、ここは伊豆に遠流された修験道の開祖役小角が開いたとされる。 そう考えれば、修験道的な意味がここに秘められていることは間違いない。 五智如来地蔵の謎は複雑で、簡単に解き明かすことはできない が、こうした謎に取り組んでいくことで、秘められていた歴史が少しずつ露わになり、伊豆という土地に対する理解がさらに深まっていく。一 つの何気ない由来書きに矛盾を見つけ、その矛盾を解くために調査し、推論を繰り返していくこと、こういったアプローチがレイラインハン ティングのもっとも面白いところといえる。

 八ヶ岳地蔵のほうは、昭和59年に地元の有志が寄進した白御影石の八体の地蔵の後ろに、風化して顔も判別できなくなった古い地蔵が前後 に四体ずつ二列に並んでいる。

 傍らに掲げられた説明文には、「海上安全・海難防除・大漁祈願のため漁師の人達によって建てられた。ここに立って海上を眺めると伊豆半 島から房総半島を一望におさめることができる。近代装備を持たない昔の漁師は八丁櫓で威勢よくこの海へ乗り出し、大室山を目じるしにして 最良の漁場を定めた」とある。

 この説明は、ただ無難な解釈が書かれているだけで、わざわざ八体もの地蔵をここまで運び上げて安置するほどの手間をかけた意味が納得で きない。伊豆では江戸時代の半ば頃から大規模なサンマ漁やイルカ漁なども行われ、さらには記紀の時代に大きな板綴り船(巨木をくり貫いて 作った大きな丸木舟の舷側に板の衝立を設けて、喫水を深くして外洋にまで出られるようにしたもの)を伊豆に産する楠で作り朝廷に献上した といった記述も残り、かなり高度な航海術を持っていたことが知られている。

 この八ヶ岳地蔵が向いている方向を見ると、視線の先に、きれいな円錐形の島影が特徴的な利島が突き当たる。さらにGPSで方位角を測る と156°を示すが、これをデジタルマップにプロットしてみると、利島の北部をかすめて三宅島に突き当たる。これは八ヶ岳地蔵が三宅島に 発する三嶋信仰に深い関わりがあることを示唆している。伊豆半島東海岸に点在する三島神社の多くが、故地である三宅島を向いているが、 この八ヶ岳地蔵も同じ意図を持っていると考えられる。この大室山山頂からは晴れれば三宅島を目視することも可能で、ここから故地を視野に 入れた祭祀が行われていたのかもしれない。

 風化してしまった元の八ヶ岳地蔵が作られた年代は不明だが、その風化の状態を見ると、稜線の反対側にある五智如来地蔵よりもさらに ずっと古いものだと推測できる。江戸をはるかにさかのぼり、鎌倉や平安まで行き着くかもしれない。だとすれば、三宅島からこの大室山の山 麓に渡ってきた初期の渡来人たち安置した可能性も考えられる。

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一碧湖
  --赤牛伝説と弁財天--

ippeki  「伊豆の 瞳」と呼ばれる静かな湖水を湛えるこの湖もかつての単成火山噴火の跡で、地質学的にはマールと呼ばれる。大室山、一碧湖、小 室山と接近して火山噴火跡があり、かつては地下のマグマの活動が盛んだったことを地形が伝えている。

 一碧湖には周辺の里に害を成す赤牛が棲み、これを日広和尚が経を唱えて収めたという伝説がある。『伊東の民話と伝説』(宮内卯守著 サ ガミヤ刊 1975年)では、以下のように紹介されている。

「昔、一碧湖は吉田の溜池あるいは大池と呼ばれ、村人たちは交通路として船で行き来していた。一方、近隣の岡村の小川沢にも池があり、 ここには神通力をもった赤牛が住んでいた。この池が年々浅くなり住みにくくなったので、寛永年間に(1624~1644)、赤牛は新しい 住みかを求めて吉田の大池にやってきた。
 赤牛はそのまま大池に住みつき、村人たちが大池を船で通ると、これをひっくり返し、さらに池に落ちた村人を食い殺すようになった。
 地元にあった光栄寺の日広上人は赤牛の魔力を封じ込めるため、十二島のうちの一つである小島に渡り、七日七晩お経をあげ、赤牛の魔力封 じを行い、ついに成功した。日広上人は二度と赤牛の魔力が現われないようにと、この小島に御堂を建て、自ら書き写した経文数巻を納め供養 した。そこでこの小島をお経島と呼ぶようになった」

 こうした赤牛にまつわる伝説は、全国各地に見られる。 長野県の白馬村にある青木湖はマリンスポーツの盛んな湖だが、ここも湖の主は赤 牛で、上流にあったせいどうの池から移り住んだと伝えられている。さらに白馬村の北に位置する小谷村でも、山王の池の主が赤牛であったと いう伝承がある。他に、長野県の八坂村の大池、山梨県韮崎市の椹池、福島県桑折町の半田沼などにも赤牛伝説が伝わっている。

 赤牛伝説を持つ場所に共通するのは、山間の湖や沼であること、赤牛が他の場所から移ってきたとされること、そしていずれの場所でも水害 や山崩れなどの災害が起こりやすいということだ。こうした伝承は、自然災害を赤牛や龍などの「魔物」に置き換えて危険性を伝えることを目 的としている。赤牛は、池の反乱が土石流となって集落を襲う様子を赤牛に例えたものだろう。

 一碧湖の赤牛伝説で興味深いのは、日蓮宗系の寺である光栄寺の住職日広上人が赤牛を調伏(法力を用いて退治したり恭順させること)した という点だ。大地に潜んで地震や山崩れなどを起こす魔物を祈祷によって抑えこみ、経を地面に埋めて重しにして調伏するという魔術的な仏法 は、主に修験道密教系の僧侶が用いていたものだが、日蓮もこうした法力に長けていたと伝えられている。日蓮宗にはそうした伝統が伝わ り、法華経に登場する天部の神である弁財天や帝釈天、摩利支天、さらに八大龍王などに誓願して土地鎮めを行った。日広上人は、そうした日 蓮の伝統に基いて一碧湖の赤牛を調伏したのだろう。この調伏が功を奏したのか、一碧湖には大きな災害の記録が残っていない。

 日広上人は、一碧湖の赤牛を調伏するにあたって、江ノ島から弁財天を勧請し、湖畔に小さな祠を置き、八大龍王も共祀した。今では一碧湖 神社という社が湖畔に置かれているが、そのすぐ南にある石室が弁財天と八大竜王を祀る江島神社で、日広上人が経を埋めたとされるお経島を 東に仰いでいる。そのお経島には、静かな湖面に美しい影を落とす朱の鳥居がやはり東を向いて建てられている。

 一般的に神社や寺、祠などは南を向いて建てられている。それは、天における不動の存在である北極星を背にして、これを参拝者が拝する形 にするためだ。東向きの場合は、春分秋分の太陽を迎え入れる構造になっている。これは、一年の節目である太陽の光を導き入れることで、 常に太陽の力に守られるという思想が込められている。また東は浄瑠璃浄土、西は西方浄土があるとされ、彼岸には浄土つまりあの世とこの世 が結ばれると考えられた。

 日広上人は、お経島に魔物調伏の力を持つ経を埋めることで魔物の力を封じ、さらに春分秋分の太陽の光を導き入れることで、彼岸のマ ジカルな力をも借りて法力を持続させようと考えたのだろう。

 一碧湖に江ノ島の弁財天を勧請したことには、もう一つの意味が考えられる。それは、蓮着寺との関連だ。日蓮は、1260年(文応元年) に『立正安国論』を著し、これを鎌倉幕府の前執権北条時頼に建白する。ところが、そこに記されていたのは鎌倉幕府の失政を糾弾するもの で、これが幕府の怒りを買って、日蓮は翌年に伊豆に配流とされる。

 幕府の役人は日蓮を今の伊藤沖まで連れてくると、沖合で日蓮を海に突き落とした。日蓮は必死に海岸まで泳ぎ、なんとか漂着する。その 漂着地に置かれたのが蓮着寺だ。この伊豆流罪を日蓮宗では伊豆法難と呼ぶ。その後、日蓮は赦免され鎌倉に戻るが、再び幕府を批判した廉で 捕えられ、今度は斬首を申しつけられる。

 そして、江ノ島の対岸にあった龍ノ口処刑場で斬首されることになった。今まさに日蓮の首が落とされようとしたそのとき、江ノ島のほう から光の玉が飛んできて刑吏たちを威嚇した。これに驚いた刑吏たちはその場から逃げ、日蓮は命拾いした。これは龍ノ口法難と呼ばれるが、 その後、龍ノ口には龍口寺が建立され、蓮着寺同様に日蓮宗の重要な聖地の一つに発展する。

 龍ノ口法難では江ノ島から飛んできた光の玉に日蓮は命を救われるが、日広上人はこの故事にちなみ、鎌倉の龍口寺と江ノ島との関係を一碧 湖にも援用して、蓮着寺と一碧湖を関連付けて、宗祖日蓮の力が東方浄瑠璃浄土から蓮着寺に注ぎ、さらに一碧湖まで射しこむことを意識した のだろう。

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 ●小室山

--大地の営みを一望し、古の人々の心を追体験する--

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 小室山も大室山同様に美しい円錐形のスコリア丘だ。およそ1万5千年前に噴火し、そのときの溶岩は小室山周辺に荒々しい溶岩地形を生 み出した。

 標高321mの頂上からは、伊豆諸島から天城山塊まで360度の展望が開け、溶岩流が直接海に注いでできた荒々しく入り組んだ景色を観 察することができる。また内陸部側を見渡すと大室山や遠笠山などのスコリア丘、矢筈山や孔ノ山の溶岩ドームなど典型的な火山地形を確認で きる。この小室山からの展望は、遠い南の海から100万年の時をかけてフィリピン海プレートに乗ってやってきた島が、本州に衝突した時か ら始まる大地の物語を語っている。

 東伊豆の火山活動は、4万年ほど前から活発になり、3000年あまり前まで続いた。伊豆半島にはすでに5000年以上前の縄文初期から 人が住んでいた痕跡があるから、リアルタイムで火山活動を目撃した人々も大勢いただろう。現代に生きる私たちも、大島の三原山や三宅島の 噴火を見て、大地の営みのダイナミズムとスケールの巨大さにただ息を飲むばかりだったことを思い出す。同様の光景を間近に目撃した古代の 人々は、そこに荒ぶる神の姿を見たに違いない。

 また、小室山から見渡せる変化に富んだ火山地形の数々は、古の人々にとっては神々の痕跡としてその目に映っただろう。そして、彼らの想 像力は豊かな物語を生み出した。伊豆の創世神話である『三宅記』、一碧湖の『赤牛伝説』などの伊豆に伝わる民話を思い浮かべながら、小室 山からからの景色を望めば、特徴的な地形から様々な物語が浮かび上がってくる。

 小室山の火口には小さな社が安置されている。この小室神社は、元禄16年(1703)の大地震に遭った小田原の藩主大久保隠岐守忠増が 西方鎮守として安置したものだ。小室山は小田原からは南に位置しているが、海沿いに遠望できる火山であることから象徴として選ばれたのだ ろう。

 元禄地震では小田原城下と領内各所が地震被害とともに、火災と津波によって壊滅的な打撃を受けた。小室神社の祭神は火災守護の愛宕大権 現と海の安全を守る金刀比羅神、そして火山の神である火産霊神の三神でり、切実な願いが込められている。

 大久保忠増は小田原藩主を継ぐ前は、幕府にあって寺社奉行若年寄を勤めた。寺社に関する専門家であった大久保忠増が小室山に白羽の 矢を立てたということは、この山が伊豆から相模の国にかけて、重要な聖地であったことも物語っている。

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ポットホール
  --溶岩と海の出会いが生んだ「珠玉」に出会いに--

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 城ヶ崎海岸の一角に建つルネッサ城ヶ崎から遊歩道を辿って海岸に出ると、正面に伊豆大島の島影が飛び込んでくる。さらに周囲を見渡すと、溶岩流が海に注いで固まったワイ ルドな海岸線がどこまでも続いている。火山台地むき出しの地面は、「磯」というよりもどこか他の天体の上にいるような感気分になる。

 伊豆半島の海岸線は、古代から中世にかけて「伊豆辺路」と呼ばれる修験道の修行場を繋ぐ巡礼路だったが、ここに立つと、荒々しい溶岩と 青い海から構成されるミニマルな景色にこの世ならぬものを感じ、この海岸を辿って巡礼していけば、空海が空と海しか見えない室戸の海で悟 りに達したように、この世を突き抜けた境地に達することができるのではないかと思わせられる。

 現在では、荒々しい溶岩がむき出しの海岸部とそこから少し内陸に入った照葉樹林を貫いて「城ヶ崎自然研究路」が伊豆高原駅近くの八幡野 の海岸と城ヶ崎の間を結んでいる。このトレースを北へと辿り、15分ほど行くと観音浜という入江がある。ここから岩場の波打ち際に行く と、岩に穿たれたポットホールの中に嵌った見事な岩のボールを見つけることができる。

 ポットホールとは、波に打ち付けられて欠けた岩が、さらに打ち寄せる波によって岩棚に擦り付けられることによって岩棚を削った穴のこと で、多くは岩棚を穿ったボールのほうは粉砕されて消失してしまうが、ここでは現在進行形で侵食が進んでいるところで、岩のボールを見るこ とができるのだ。

 この大人が一抱えするほどの大きさのボールを初めて見たとき、私はオーパーツを想像した。オーパーツとは天然のものとも人工のものとも 判然としない造物で、最先端の技術を駆使しても製作することが困難なものを指す。世界中の多くの古代遺跡で理解に苦しむような精密な加工 品が見つかっているが、そのオーパーツの典型として、真球の岩のボールがある。南米のジャングル奥深く、マヤやインカあるいはオルメカと いった謎の古代文明の遺跡の傍らにポツンと完璧な球体の岩のボールが置かれている。そんな光景がナショナルジオグラフィックのような雑誌 に掲載されたりしている。

 このポットホールならぬポットボールを見つけ、艶やかなその表面に触れたとき、あの雑誌で見た謎のオーパーツはこれではないかと思っ た。たぶん、そんな私の見立ては間違ってはいないと思う。古代に存在した超文明などという仮説を持ちださなくても、自然が生み出したこう した造物に出会えば、自然が秘めた力の奥深さに感動を覚えさせられる。古代の人たちは、こうした物を見つけたとき、これを神からの贈り物 として、わざわざ遠く離れたジャングルの奥まで運び、ご神体として崇めたのだろう。

 このポットボールは、伊豆の自然が生み出した奇跡の一つ、まさに伊豆創世の神、三嶋神の力を思わせる。これが作り出される原理を理解し ても……いや、逆にその原理を理解するからこそ、これをもたらした自然の力に畏敬の念を抱かせずにはおおれない。

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城ヶ崎海岸
  --溶岩と海の出合いが生んだダイナミックな景観から火山を学ぶ--

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 蓮着寺から城ヶ崎、富戸と繋ぐ遊歩道は、「城ヶ崎ピクニカルコース」と呼ばれ、変化に富んだ景色が楽しめる。

 約4000年前、大室山の噴火によって、その溶岩が相模湾へと流れ込んで一気に冷やされて出来上がったのが城ヶ崎。このあたり一帯は、 植物が根を張るように溶岩流が海に流れ込んだため、入り組んだ断崖地形となり、柱状列石、柱状節理、波食台、波食窪など、溶岩が一気に冷 え固まった瞬間の荒々しい場面の記憶をそのまま留めている。

 このコース沿いの特徴的な地形には、「つなきり」、「ひら根」、「しんのり」、「びしゃご」、「穴口」、「ならいかけ」…と個性的な名 前がつけられている。それぞれには風景の成り立ちを擬人化した物語が伝えられでいる。それは特異な風景とともに溶岩に秘められた大地の力 が、人にインスピレーションをもたらすためだろう。

 城ヶ崎を象徴する城ヶ崎吊り橋は、門脇埼と半四郎落としの間に掛けられている。半四郎落としは、昔、富戸に住んでいた半四郎という漁師 が、一人で漆喰壁に混ぜて使う海藻のドジ草を取りに行き、籠いっぱいに入れたドジ草の重みでこの断崖から転落したことから呼ばれるように なったと伝えられている。半四郎にはおよしという妻がいて、およしは半四郎が亡くなったこの場所にきては泣き、悲嘆にくれたまま生涯を終 えた。そのおよしが流した涙が、この半四郎落とし周辺に咲き乱れる可憐な磯菊だとこの伝説は伝えている。

 城ヶ崎吊り橋近くには、星野哲郎が作詞し、ロス・プリモスが歌って大ヒットとなった「城ヶ崎ブルース」と「雨の城ヶ崎」の歌碑が立って いるが、こうした歌心を呼び起こすのも城ヶ崎という場所が持つ力が人に強いインスピレーションをもたらすからだといえるだろう。

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稲取・江戸築城石
  --伊豆の大地の力が凝縮した石の秘密--

inatori  稲取の駅前には、江戸城大修築に用いられた築城石が展示されている。コロのついた台座に載せられた大石には綱がつけられ、これを引い て重さを実感することができる。また岩にノミで穴を開け、そこに木の楔を差し込んでこれに水を含ませ、楔が膨張することによって岩を割る 「矢割り」という当時の切り出しの方法も展示されている。

 室町時代後期の武将で、相模国守護を務めていた上杉定正の家宰であった太田道灌は、康正二年(1456)に江戸に築城を開始し、翌長禄 元年にここを居城とする。当時、沿岸での漁業を生業とする寒村に過ぎなかったこの地に城が築かれたのは、川越城とここを結んで幕府から離 反した足利成氏に対する防衛線を築くためだった。

 太田道灌江戸城建設開始から147年後の慶長八年(1603)、徳川家康はこの江戸城を本拠として江戸幕府を開き、大規模な江戸城の 修築を各藩に命じる。この時、大量の岩が必要とされ、主に真鶴から稲取にかけて東伊豆に産する「伊豆石」が用いられた。

 伊豆石にはこの東伊豆で産する安山岩系のものと、伊豆の他の地域で産する凝灰岩系のものがあり、前者は緻密な組織構造で硬く、後者は 柔らかくて加工がしやすいという特徴を持っている。江戸城修築に用いられた安山岩系の伊豆石は、硬く加工が難しく、課役大名たちは高度な 技術を持つ石工を伊豆へ送り込み、切り出しの任に当たらせた。

 山から切り出された石は、それを切り出した大名や、石の材質、整製の評価を示す刻印が打たれ、港から船積みされて江戸へと運ばれた。江 戸城の石垣にも、また切り出したまま何らかの事情で遺棄されて伊豆に残る石にもこれらの刻印を見ることができる。

 洋の東西を問わず、太古から、石を加工する仕事は神聖なものとされてきた。紀元前5000年から4000年頃、世界中で巨石文化が花を 開いた。この時期、北欧からイベリア半島の広範な地域に今に残るストーンサークル(環状列石)やメンヒル、ドルメン、チェンバードマウン ド(内部に石室を持つ墳丘)などが作られた。巨石文化を代表するストーンヘンジもこの時代に作られたものだった。また、日本の秋田県の鹿 角にある大湯環状列石三内丸山遺跡の周辺に点在するストーンサークルもこの時代のものだ。

 さらに時代がやや下って、紀元前2500年頃になると、エジプトのギザの大ピラミッドが建造される。ピラミッドの建造に活躍した石工 たちが、後にその専門技術を伝承する組合を結成し、それがフリーメーソンへと発展したのは有名な話だ。

 現代の技術をもってしても建造するのが困難な巨石建造物は、それを目にした太古の人々にとっては奇跡に思えただろう。そして、それを設 計し築き上げた石工たちは神に近い者として崇拝されたことだろう。そもそも、岩には神秘的な力が宿り、時には神が降り立つ依代になると考 えられていた。イスラムの聖地であるメッカのカアバ神殿には、その中心に黒石があり、これが要石として崇められている。ギリシアのデル フォイの神殿には、その中心にオムパロスの石と呼ばれる大岩があり、その割れ目から立ち上るプネウマと呼ばれる甘い香りのガスを吸った巫 女たちがトランス状態の中で神託をもたらした。日本でも、磐座が神の依代として崇められ、多くの神社が磐座を中心とした神域を形作ってい る。そのように、岩そのものが神聖なものであり、これを扱う石工は神に近い特殊な人間たちとみなされてきた。

 戦国時代以降の日本では、石工は築城の専門家ともなり、風水陰陽道などの知識も併せ持って、力学的に強く、また霊的な意味でも守りの 固い城を作る専門技術者として戦国大名たちに引き立てられた。比叡山安土城の基礎を作った「穴太衆(あのうしゅう)」や「肥後石工」は 非常 に高度な工学技術と風水知識を持っていたことで知られている。

 徳川家康には天海僧正というブレーンがいた。天海は天台密教の僧で、風水陰陽道にも詳しく、江戸を開くにあたり、様々な風水的仕掛け を施したことで知られている。また、家康が亡くなると、東照大権現として日光東照宮に祀り、江戸の守護神としたのも天海の案だった。

 石工という職業に秘められた歴史的な背景や天海の存在を考えると、徳川の300年に渡る栄華を支えることになる江戸城の築城に伊豆石が 用いられたのは、江戸への運搬に便利な場所だったからというだけではなく、江戸城という日本の要を伊豆石が持つ目に見えない超自然的な力 で補強しようとする意図があったのかもしれない。

 伊豆石が切り出された場所は「石丁場」として今も残されている。そうした場所は、岩盤から切りだされ、整形された岩が今でも累々と転が り、独特の雰囲気を漂わせている。その雰囲気に触れると、やはり伊豆石が江戸の築城石として用いられたのは、この石に秘められた伊豆の大 地の力を江戸城の霊的な防御に利用したのではないかという気がますます強くしてくる。

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稲取の石垣の家並みと石仏
  --全国の石工が伊豆に残した痕跡--

inatori  八百比丘尼像(来宮信仰の項参照)やその周囲に配置された道祖神も含め、稲取では集落のあちこちに道祖神や地蔵が置かれているのが目 立つ。また、港を見下ろす斜面に発達した古い集落は緻密な石垣が続く美しい風景を見せてくれる。

 江戸の築城が完了し、さらに江戸市中での石積みを基礎とした街づくりが一段落すると、伊豆に集められた石工たちの仕事が少なくなり、そ のまま伊豆に残った者や元々伊豆で石工の技術を持っていた者たちは、伊豆の土地で石垣を作ったり、地蔵や道祖神を彫るようになった。その 名残が今の素朴な風景を生み出した。

 また、伊豆では地蔵や道祖神は「さえの神」と呼ばれ、子どもたちが遊び道具にしたり、大人が願を掛けるときに子供に命じて、さえの神と 遊びながら願い事をさせたりした。遊びや願いの作法は荒々しく、さえの神は棒で叩かれたり、蹴られたりした。あるとき、旅人がその光景を 見て、地蔵に乱暴をしてはいけないと子どもたちをたしなめたところ、夢の中にその地蔵が現れて、「せっかく子どもたちと楽しく遊んでいた のに、邪魔をしたな」と叱られたという逸話が残されている。八百比丘尼の像もそうだが、摩滅や傷みが激しい像ほど、土地の人達に愛されて きた仏様なのだ。

 どことなく心騒ぐ港の雰囲気とは対照的に、落ち着いた山里の風情が漂う山側の集落をのんびりと散策してみたい。整然とした石垣に出 会ったら、築城石を切り出した藩の刻印や矢割りの跡がないか探し、地蔵を見つけたら、どれだけ子どもたちと遊んだ地蔵さんなのかその摩耗 した体を撫でて想像してみよう。

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どんつく神社
  --縄文の五穀豊穣・子孫繁栄の祈りを伝える個性的神社--

dontuku   男根を象った巨大なご神体を神輿に載せて練り歩く「どんつく祭」は、全国的にもとてもユニークな祭りだ。  このご神体を祀るどんつく神社は、稲取の港を見下ろす岬の上にある。国道135号線を伊東の方から南下してくると、稲取の港が眼下に開 けたかと思うと、その向こうに海に突き出した稲取岬が見える。夏の午後、海霧が沖から押し寄せてくると岬に掛かり、滝雲のように丘を越え ていく幻想的な風景が見られることがある。

 縄文の昔から、こうした岬は聖地とされることが多く、この稲取岬をはじめ東伊豆の岬には、必ずと言っていいくらい縄文時代の遺跡やそれ を受け継ぐ神社や寺がある。

 どんつく神社は、この岬のもっとも高い丘の上にあって、遠く水平線を見つめている。その社が向いているのは、夏至の日の出の方向だ。太 古の太陽信仰では、夏至の太陽は一年でもっとも力強く、五穀豊穣や子孫繁栄をもたらしてくれると信じられていた。太陽信仰を如実に示す環 状列石(ストーンサークル)では、男根型に削られた石神がサークルの中心に置かれ、夏至の朝日の方角を示すキーストーンを照らしたその朝 日が、石神を照らす形になっていた。

 どんつく神社の社は近年改築された新しいものだが、夏至の朝日を拝するその配置は、ずっと継承されてきたものだろう。今では巨大な男根 のご神体が社からむき出しで、夏至の日にはこのご神体に直接朝日が注ぐ形となる。どんつく祭は、6月の中旬に行われるが、本来は夏至の日 に、太陽の力をたっぷり注ぎ込まれたご神体を街へと引き出し、蓄えられたその力をみんなで享受するものだったのだろう。

 祭りの主催者も参加者も、これが何千年も前の縄文の信仰を受け継いでいることなど意識することなく、縄文の人たちもそうであったと想像 されるように、パッションのおもむくまま無邪気に祭りを楽しむ様は、伊豆という土地が秘めたプリミティヴな力を象徴している。

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3.【伊豆辺路と伊豆山信仰の聖地】

 仏教神道そして道教がブレンドされた日本独自の宗教として修験道がある。

 山がちの日本では、ほとんどどんな場所からでもその地方を象徴するランドマークである山岳が目に入る。そうした山は、海上航行の目安 としてあるいは都市計画などの位置基準として用いられ「山あて」と呼ばれた。また古来からの山岳信仰もそんな自然環境の中で育まれ、山は 神の宿る場所であり死者の魂が赴く場所として神聖視され畏れられた。

 そんな人界ではない場所にあえて踏み込み、人間の限界を越えて神に近づこうとするのが修験道の目的だった。

 修験の行者は山に伏して修行することから一般的に山伏と呼ばれる。また、彼 らは山だけでなく海岸の岸壁などを修行の場とした。それは海と接する懸崖が山と同様にあの世とこの世の境であると考えたからだ。

 修験の行場としては、紀伊半島の中央部を走る山岳を縦断する奥駈道や東北の出羽三山などが有名だが、四国遍路や熊野古道も、元は修験 の道だった。四国の遍路は、空海が若かりし頃、四国の修験道場を巡ったその軌跡を辿るルートを整備して、一般の信徒が巡礼するルートとし たものだ。四国の「遍路」や熊野に残る「小辺路、中辺路、大辺路」といったルートはもとはいずれも「辺路(へじ)」と呼ばれたもので、 「辺の道」つまり海岸線の道を意味する。

 そんな「辺路」がかつて伊豆にもあった。それは「伊豆辺路(いずへじ)」と呼ばれた。

 奈良時代修験道の開祖とされる役小角伊豆大島に配流となり、その際に現在の熱海走湯に渡って、ここを伊豆半島における修験の本拠 として開いたと伝えられている。役小角が開いた走湯権現は伊豆山神社となり、今も伊豆半島における重要な聖地として残っている。走湯山 縁起には、この伊豆山と富士山 が両界曼荼羅の出入口であると記されているが、それを体現して伊豆山神社の本殿は正確に富士山を背にして発祥の地である走湯を向いている。

 伊豆辺路はこの伊豆山神社を起点として、伊豆半島の海岸線を時計回りに辿って一周し、三嶋大社を経て富士山に至るもので、海岸線だけ でも300kmに達する。さらに伊豆半島の山脈を縦走する「伊豆峯路」もあって、これも含めれば総延長は400kmにも及ぶルート となる。距離は四国八十八か所を結ぶ四国遍路には及ばないが、伊豆辺路のほうが四国遍路よりもはるかに古く、また火 山地形が生み出した故の風景のダイナミックさは四国遍路を凌駕する。

 修行・巡礼路として、古代にすでに完成されていた伊豆辺路は、信仰の山としての富士山とも深い関係を持ち、日本を代表する巡礼路だっ たが、明治期の廃仏毀釈や修験禁止令によって急速に衰退し、現在ではわずかに痕跡を留めるだけになっている。

 伊豆辺路は、前章の「火山信仰と三嶋信仰の聖地」でも触れた伊豆半島・伊豆諸島の地球物理学的・地質学的な成り立ちを実感できる風景 を繋ぎ、そこに身を置くと大地の躍動が全身に沁みわたるような力に満ちている。伊豆辺路は「伊豆ジオパーク」として設定されるルートとほ ぼ重なっているが、それはかつて修験者たちが、大地から湧き出す力に自らをシンクロさせることで超自然的な力を獲得していたことを科学的 に証明しているともいえる。

 私の目には、「伊豆ジオパーク」はそのまま「伊豆辺路」の風景として、ありありと浮かび上がってくる。

 では、その伊豆辺路にまつわる伊豆半島の聖地をこれから紹介していこう。

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伊豆山神社
  --富士山と繋がる両界曼荼羅の聖地--
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 『熱海駅から北北東へ1.5kmあまり、道なりに緩く弧を描きながら北西へ折れていくと、鬱蒼とした緑に覆われた丘陵に吸い込まれるような伊豆山神社の参道に吸い込まれ ていく。進むほどに緑の密度が濃くなっていくこの参道を辿り、最後に長く急な階段を登り切ると、背後の緑に馴染んだ落ち着いた社殿が出迎 えて くれる。

 『梁塵秘抄』では、この伊豆山神社を次のように紹介している。 「(伊豆山は)我国第二の宗廟(第一は伊勢大神宮)と崇め、関東の総鎮守なり、往古より武門誓詞の証明、開運擁護の霊神と称し奉る。山中 の秘所は八穴の霊道・幽道を開き、洞裏の霊泉は四種の病気を癒し、二十六時中に十方の善悪・邪正を裁断したまう事、この御神の御本誓な り。八穴道とは、一路は戸隠・第三の重巌穴に通ず。二路は諏訪の湖水に至る。三路は伊勢大神宮に通ず。四路は金峰山上に届く。五路は鎮 西・阿蘇の湖水に通ず。六路は富士山頂に通ず。七路は浅間の峰に至る。八路は摂津州・住吉なり。四方の修験霊験所は伊豆の走井(走湯)、 信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆(鳥取)の大山、丹後の成相、土佐の室生、讃岐の志渡…」

 ここには、伊豆山がまるで全国の聖地をとり結ぶ中心地のように記されている。

 八穴の霊道は大げさにしても、伊豆山神社の方位を見ると、六路の「富士山頂に通ず」という記述が気にかかる。というのも、伊豆山神 社の本殿は方位角310°方向を背にしていて、その方向は富士山頂にぴったり一致するからだ。

 伊豆山の由来を記した 『走湯山縁起』には、伊豆山と富士山が、それぞれ両界曼荼羅の入口と出口に当たるという記述もあって、伊豆山と 富士山との関係が深いことを物語っている。これをデジタルマップで検証してみると、ただ単に本殿が富士山を背にしているだけでなく、富 士山と伊豆山神社本殿を結ぶ線上に、伊豆山神社の旧地である本宮神社も位置していて、明らかに有意な配置であることがわかる。

 両界曼荼羅は、修験道密教の世界観で、この世である胎蔵界大日如来を頂点としたあの世である金剛界二つの世界を示している。伊豆 山を開いたのは修験道の開祖である役小角とされているが、一方、役小角が遠流されて伊豆にやってくる以前から、山岳信仰の修行場であっ た形跡もある。異説では、役小角が活躍する以前、松葉仙人という山岳修行者が走湯権現を祀り、その後、木生、金地、蘭脱の三仙人が伊豆山 を開き、同時に伊豆辺路という伊豆半島の海岸部を一周する修行路を開いたとされている。

 伊豆半島の沿岸部には海蝕洞窟が数多くあり、そこで修験者が修行したという伝承も残っている。伊豆半島を一周する修行路は古くから 「伊豆辺路」として知られていたようで、さらにこれが富士山修験とも結びついていたことが推測できる。

 伊豆山を出発した修行者は伊豆半島を一周し、富士山麓の洞窟でさらに修行を続け、そこで悟りを開くといったプロセスは、走湯山縁起が伝 える伊豆山と富士山が両界曼荼羅の入口と出口に当たるという記述に符合している。

 伊豆山で修行成就の願掛けをして、伊豆半島を巡るうちはま だ俗界である胎蔵界で修行していることになる。富士山麓に達すると、修行者は深く暗い溶岩洞窟の奥底にある金剛界に足を踏み入れる。そして、ここでついに悟りに達した修行 者は再び明るい世界に戻ってくる。伊豆山神社の配置はそんな修行体系を物語っている。

 伊豆山神社の境内には、雷電神社という摂社が祀られている。これは、方位角220°で、背後に熱海の来宮神社を背負う格好で配置され ている。来宮はしばしば木宮とも記されるように、樹木信仰をベースに持っている。熱海の来宮神社は樹齢2000年を越えるといわれる大楠 がご神体とされ、神社の由緒には「元々は自然信仰の聖地だった」と明記されている。

 修験道山岳信仰をベースとしていて、山に含まれる巨石や巨木も聖なる力が具現したものとして崇める。そういったことを考えると、熱 海の来宮神社はもとは伊豆山の神域に含まれる修行場だったのかもしれない。

 雷電神社の横にある手水は、紅白の龍の口から水が流れ出しているが、この紅の龍は火を表し、白は水を表している。火と水は陰陽五行 の概念ではともに消し合う「相克(そうこく)」という関係にあるが、ここでは、火に象徴される火山と、水に象徴される海が出合い、ぶつか り合ったところで大地が生まれ、さらにそのダイナミックなエネルギーの奔出が温泉を生んだととらえられている。また、雷電は火山噴火の 荒々しさを象徴しているといえる。

 伊豆山神社の祭神は、伊豆山神天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、拷幡千千姫尊(たくはたちぢひめのみこと)、瓊瓊杵尊(にに ぎのみこと))の三神とされているが、これは明治の神仏分離令によってかなり強引に付会されたもので、実際には明らかではない。 そもそもが神仏習合修験道の聖地であり、また火山信仰も含まれていたことを考え合わせると、ここは様々な神仏が混淆しあうプリミティヴな聖地であるといえるだろう。

 伊豆山神社の本殿に隣り合う形で、鬱蒼とした緑の中に白い鳥居が印象的な白山神社遙拝所が置かれている。白山神社の本殿は、この遥拝所の脇から続く登山道を10分ほど 登ったところにある。

 その白山神社の由来は、次のように説明されている。「天平元年夏、東国に疫病が流行した際、北条の祭主が伊豆権現に祈願したところ 『悪行のなす所、救いの術なし、これ白山の神威を頼むべし』との神託があり、猛暑の頃 であったにもかかわらず、一夜のうちに石蔵谷(白山神社鎮座地)に雪が降り積もり、幾日経っても消えず、病人がこの雪をなめたところ、病苦がたちどころに平癒したことか ら、この御社が創立されました」。ほんとうに真夏に雪が降ったかどうかは別として、白山を祀った点が興味深い。

 奈良時代の僧、泰澄によって開山された白山は北陸地方を代表する修験道のメッカだった。長い裾野を持つ白山は、加賀、越前、美濃の三方 から登山道があり、これは禅定道と呼ばれる。禅定(山頂)に至るまでが修験道の重要な修行であり、馬場(ばんば)と呼ばれる起点から長 い登山道を辿っていく中で修験者は様々な心の葛藤を体験し、禅定において悟達するとされる。

 伊豆山神社白山神社遥拝所から登山道を辿 ると、白山神社、本宮神社を経由して十石峠まで行き着く。十石峠は別名日金山(ひがねやま)とも呼ばれ、青森の恐山のように死人の霊 が集まる場所として信仰されてきた。この白山神社遥拝所から伸びる登山道伊豆山神社と富士山を結ぶラインにも一致していることか ら、白山禅定道と同じように、修験者が悟達に至るルートとして設けられていたのだろう。

 さらに、修験者は長い間山中に篭って修行を続け ることから、様々な病気に効く万能薬の処方を独自に持ち、常時これを身に着けていた。吉野のダラニスケや御嶽山百草丸などが今に残っているが、病に苦しむ里人が伊豆山神 社に願掛けに訪れた際に、修行場から降りてきた修験者と出会い、彼らから万能薬を分けてもらっ て病気が快癒したことが、白山神社の伝説という形をとって言い伝えられてきたのかもしれない。

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城ヶ崎ピクニカルコース・城ヶ崎自然研究路
  --修験のルートを彷彿させる懸崖の道--
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 伊豆急城ヶ崎海岸駅から東に向かい、城ヶ崎海岸出ると、荒々しい溶岩と青い海から構成されるミニマルな景色に、この世ならぬものを感じさせられる。かつての修験者のよう に、この海岸を辿って巡礼していけば、空海が空と海しか見えない室戸の海で悟りに達したように、この世を突き抜けた境地に達することがで きるのではないかと素直に感じさせられる。

 現在では、荒々しい溶岩がむき出しの海岸部とそこから少し内陸に入った照葉樹林を貫いて城ヶ崎ピクニカルコースと城ヶ崎自然研究路が整 備され、誰でも安全に海岸線を辿ることができる。

 城ヶ崎を象徴する門脇吊り橋は、その真下に断崖を深く穿った海蝕洞窟が奈落に通じるような口を開け、腹を揺さぶるような波音が響いて いる。城ヶ崎ピクニカルコースの終点には蓮着寺がある。ここは日蓮が伊豆に配流になった際に流れ着いた場所とされ、本殿と参道が真っ直ぐ 東の海を向いている。日蓮も太陽を非常に意識した人で、これは、一年の節目の春分秋分の朝日を大日如来に見立てて拝するための構造に なっている。

 蓮着寺から伊豆高原駅の間は城ヶ崎自然研究路となる。こちらはワイルドな風景の中を細いトレースが伸びるだけの道で、より昔の辺路の面 影を残している。

 途中、観音浜という入江があり、岩場を伝って波打ち際まで行くと、岩に穿たれたポットホールの中に嵌った見事な岩のボールを見つける ことができる。ポットホールとは、波に打ち付けられて欠けた岩が、さらに打ち寄せる波によって岩棚に擦り付けられることによって岩棚を 削った穴のことで、多くは岩棚を穿ったボールのほうは粉砕されて消失してしまうが、ここでは現在進行形で侵食が進んでいるところで、岩の ボールを見ることができる。こうした自然の造形も、昔の修験者たちの目には奇跡として映っただろう。火山から流れだした溶岩と海が出合う ことで生まれたこうした奇跡は、彼らには神の現れととらえられ、ご神体として崇められるようになった例も少なくない。

 人は古くから景観にインスパイアされて、様々な神話を生み出してきた。それは人が自然と共生関係にあることを誰もが理解し、自然よっ て自分が生かされているという意識を強く持っていたからだろう。今、各地で「ジオパーク」が誕生しているが、これも学術的な観点だけでな く、特別な地形と相対した人間が抱いた信仰に光を当てることによって、自然から疎外されがちなわれわれ現代人もより深くその土地の意味、 人と自然との共生の意味を理解できるのではないだろうか。

  オーストラリアの先住民であるアボリジニ創世神話は「ドリームタイム」と呼ばれる。アボリジニの祖先は、大地が形成されるとす ぐ、地中から様々な動物の形をしたトーテムとして地上に現れたと伝えられている。彼らは地上をさまよいながら、今の人間と同じように、生 活し、遊び、狩りをし、子供を産み、死んでいった。そんな彼らの痕跡は、岩や洞窟、湖、その他いろいろな特徴のある地形になって残り、最 後にはアボリジニの祖先たちもアボリジニをこの世に生み出したのちに、固まって様々な地形になった。それをアボリジニたちはドリームタイ ムと呼んだ。ドリームタイムは大地創造の時代であり、日本神話でいえば、イザナギイザナミによる「国生み」の時代ともいえる。

 ドリームタイムが日本の国生み神話と異なるのは、ウルル(エアーズロック)やカタ・ジュタ(アボリジニの言葉で「多くの頭」の意味。 マウント・オルガ)といった特別神聖な聖地とされたところだけでなく、オーストラリアの大地に刻まれた大小様々な地形が、すべてドリーム タイムの物語を伝える重要な聖地と考えられてきた点だ。さらに、ドリームタイムの時代に放浪していたアボリジニの祖先たちは、細かな聖地 を結ぶ特別なルートを無数に持ち、それを伝えた。そのルートは"ドリーミング・トラック"あるいは"ソングライン"と呼ばれた。

 伊豆辺路を構成するこのトレッキングルートは、いうなれば修験者のソングラインだろう。懸崖に打ち付ける波音の中に風景の叫びを聞 き、そこに立ち上るゲニウス・ロキを「物語」として感じながら巡礼する。今でも、このルートを辿ると、自然と対話しているという感覚が押 し寄せる。

 城ヶ崎自然研究路の終点は、八幡野の港になる。港の端の岬には堂の穴と呼ばれる海蝕洞窟がある。ここは、八幡宮来宮神社の祭神が海の彼 方からやってきてここに漂着し、最初に鎮座した場所とされている。元々は修験者が篭って修行した場所であり、ここに篭っていた修験者が、 一般の人には奇跡と思えるような事績を行い、神として崇められるようになったのだろう。

来宮山東泉院
  --役行者ゆかりの古刹--
  tousenin

 伊豆急片瀬白田駅から間近な丘の中腹にある来宮山東泉院は、伊豆八十八ヶ所霊場の31番札所であり、まさに現代の伊豆遍路のポイン ト。

 ここに安置される本尊の聖観音役小角の作と伝えられ、伊豆修験と関連が深い。寺号を来宮と称するのは、来迎神を祀る来宮信仰が混交 した神仏習合の場であることを表している。現在は曹が、元々、ここが太古の聖地であり、それが修験道に受け継がれ、さらに仏 教と混交することによって、現在の形になったと考えられる。

 海から心地良い風が吹き上げてくる堂で静かに参禅していると、伊豆辺路を辿った修行者の心境にシンクロしていく。

 

 

河津温泉堂
  --伊豆辺路修験拝所--
  

 修験の行者は過酷な環境で修行を行うため、怪我を負ったり、病を患うことも多く、手当てや修養法、生薬なども独自のものを発展させ た。吉野修験では「ダラニスケ」と呼ばれる万能薬が修験者の必需品であり、御嶽山でも「百草丸」と呼ばれる万能薬が現代にまで伝えられて いる。

 また、各地に残る傷を癒やすとのできる温泉の発見譚も修験者によって伝えられたものが多い。弘法大師空海が杖をついた場所から温泉 (泉)が噴出したという伝説などは、まさにそうした例だ。伊豆では、熱海の走湯が役行者の開湯とされ、河津の谷津温泉も奈良時代行基に よって発見されたと伝えられている。

 行基東大寺の大仏建立の責任者として知られているが、そもそもは在野の優婆塞で、全国に仏法を普及させるために行脚し、さまざまな 霊験を示したと伝えられている。

 谷津温泉にある温泉堂は、伊豆辺路の途中の拝所でもあり、当然、行基もここを訪れただろう。温泉が行基の発見になるものか、あるいは 行基が訪れてたときにはすでに知られていたのかははっきりしないが、行基というカリスマに結び付けられているということは、この温泉の霊 験が強いものであったということは確かだろう。

 



三穂ケ崎遺跡
  --空海伝説の残る岩屋と閼伽水--
  miho

 白浜海岸から南に下った三穂ヶ崎の突端には海蝕洞窟があり、その中から5世紀頃のものと推定される匂玉、丸玉、臼玉等多数の石製の玉類が発見されている。これは、一般に 海神や海鳥の祭りに捧げられたものと考えられている。

 江戸期の修験者が伊豆辺路を巡りながら各地の寺社に札を納めて回った記録である『伊豆峯次第』には「 弘法大師護摩修行所なり、また閼伽水出所あり」と記述され、ここが修験に関係する重要な場所であったことを匂わせる。

 空海19歳、まだ一人の私度僧、修験者として厳しい修行を行っていたのこと。空海は四国室戸岬の海蝕洞窟に篭り、虚空蔵求聞持法を 100万回唱えるという修行をここで満願し、その瞬間、明星の光が口に飛び込み、悟りを開いたとされている。この時、洞窟から見える景 色は空と海だけで、「目に見える自然は空と海だけだが、そこには自然界のすべての知恵がある」と感じ、佐伯真魚(さえきのまお)という名 を捨て、以後、「空海」を自分の名とした。

 空海は、水銀鉱脈を各地に探し、最終的に良質な産地であった高野山を本拠とした。高野山周辺は、もともと丹生都姫神社の領域で、空海高野山を高野明神から借り受ける契 約を結んだが、具体的な契約年月を記した部分が紙魚に食われてわからなくなったために、永遠に空海が貰い受けることになったと『高野山縁 起』に記される。そうした詭弁を用いて高野山を我が物にしたかったほど、ここでは良質の水銀が採れたのだろう。

 水銀は中国の神仙道や道教では不老不死を得るための重要な原料とされ、水銀を用いて不老不死の妙薬を作る技術を「錬丹術」と呼んだ。 多くの方士や道士が煉丹術を極めようとしたが、それに成功したという実例は伝わっていない。秦の始皇帝秒には水銀のプールがあると言われ ているが、それも取り巻きの方士たちが始皇帝の不老不死を願って作ったものだ。

 また水銀は金を精製するためにも必要なもので、奈良時代東大寺盧舎那仏建立の際には、大仏の全身を鍍金するために、大量の金と水銀 が集められた。

 水銀は天然には硫化水銀(辰砂)の形で存在する。朱やベンガラともいわれる真っ赤な鉱物で岩に含まれる。密教では聖水を「閼伽水(あ かみず)」と呼ぶが、これはサンスクリット語の「水」を指すと同時に朱の意味も含んでいる。つまり閼伽水は硫化水銀を含んだ赤い岩の間に 湧き出す水で、これに微量の水銀が含まれていて不老不死の力をもたらすと信じられていたのだ。

 修験行者は山に入るときに秘伝の万能薬を持つ。吉野では「陀羅尼助」と呼ばれる薬が伝わり、御嶽山には「百草丸」という薬が伝わって いる。どちらも地元で採れる生薬が主体で、今は水銀は含まれていなかったが、昔は水銀を含有していた。

 この三穂ヶ崎遺跡は海蝕洞窟の中にあり、真っ赤な岩の間から閼伽水が染み出している。ここでは多くの行者が修行し、空海もここで修行 したと伝えられている。空海が伊豆辺路を辿っていたとすれば、この場所は、空海にとって大きなインスピレーションをもたらした場所だった のではないだろうか。

 



竜宮窟・盥岬・遠国島
  --南伊豆沿岸部に連なる祭祀遺跡--
  miho

 海蝕洞窟の天井が抜けて独特の景観を見せる竜宮窟。抜けた上部の形がハート型に見えることから、恋愛のパワースポットともてはやされているが、ここもやはり修験の拝所 の一つであったと考えられる。地元では昔から自殺の名所として知られていたというが、古代から彼岸と繋がる場所とされてきた「岬」「海蝕 洞窟」という二つの要素が一つになったこの場所は、苦痛も試練もなく、ダイレクトに彼岸に達することのできる場所として人は無意識に感じ るのかもしれない。「パワースポット」と呼ばれるような場所は、過去に悲劇があったような、ふつうに考えればネガティヴな場所が多いが、 それもやはり「彼岸」のイメージを無意識に喚起させるからだろう。

 竜宮窟を見下ろす尾根の上には、小さな祠が置かれている。この祠は、奈良時代の祭祀遺跡が確認されてい る遠国島遺跡にあった祠がもともとここにあった竜神を祀った祠に合祀されたものと伝えられている。遠国島はここからさらに南へ海岸線を辿り、遊歩道も途絶えた先にある島 で、今でも船以外の交通手段がない。ここには、伊豆辺路を辿る修験者が長期間暮らしていたらしく、奈良時代の什器が多数見つかっている。 竜宮窟の上にある祠は正確に遠国島を向き、竜宮窟から遠国島へかけて伊豆辺路の巡礼路であったことを示している。

 下田市田牛から盥岬を経由して逢ヶ浜へと至る盥岬遊歩道は、アップダウンの激しい海岸沿いに、こんもりと茂った照葉樹林の森を抜け、 明るいスダジイの林を突っ切り、さらに断崖の上を行く、まさに修験の修行路を彷彿させる。

 盥岬の北の尾根からは、大きな海蝕洞窟が口を開ける遠国島を間近に見ることができる。盥岬に出ると、荒々しい磯が連続する海岸の先に 白砂が眩しい弓ヶ浜が遠望できる。懸崖にへばりつくように辿ってきた修験者たちは、光り溢れる白砂の砂浜を見て、間違いなく「浄土」を感 じただろう。そして弓ヶ浜に辿り着いた時には、そこまでの苦しい行程もすべて忘れるほどの歓喜を味わったのではないだろうか。

 南伊豆には弓ヶ浜のような大小の美しい浜が点在している。伊豆辺路を辿る修行・巡礼は、ただ過酷なだけではなく、浄土・彼岸をイメー シさせるこうした景色がほどよく散りばめられていて、過酷と歓喜を繰り返すうちに、修行者は段階的に本当の彼岸へと向かっているという意 識を固めていったのだろう。

 



石室神社
  --役小角開創の由来と不老不死伝説--
  miho

 海底から湧き上がった熱い溶岩が、何か人智を超えた力で一瞬にして凝固させられたような奇岩が続く石廊崎は、いまでも胎動する火山の気配に圧倒されそうになりる。石室神 社は、盛り上がった溶岩が垂れ落ちようとした瞬間に固まった岩棚の下に安置されているが、これは、この溶岩の動きを封じて、火 山が息を吹き返さないように呪(まじな)いを施しているかのようだ。

 この石室神社の社殿の下には、一本の太い帆柱が根太として使われている。これは江戸時代に播磨から江戸へ塩を運んでいた帆船のものだ と伝えられている。

 播磨から江戸へ向かう途中、この船は石廊崎沖で時化に遭い、難破しそうになる。そのとき、船子たちは石廊権現に窮地を脱することができるよう、必死に祈り、「もし、無事 に江戸に着くことが出来ましたら、帰りには帆柱を寄進いたします」と願掛けした。すると、ふいに嵐は止み、船は江戸へと無事に辿り着くこ とができた。

 江戸で新たな荷物を積み、帰路に着いた船は、石廊崎沖に差し掛かると、ふいに風が止まり身動きできなくなってしまう。そのとき、 往路で見た石廊権現の社が船頭の目に入った。船頭は、「権現様、危うく約束を忘れそうになりまして申し訳ありません。帆柱を寄進い たしますのでどうかお許しください」とその社に向かって拝み、船子たちに命じて帆柱を切り倒させた。

 その帆柱を海に投げ込むと、たちまち大波が起こってこの帆柱をさらい、岸辺に運んで岩の間にがっちりと食い込ませた。今に残る石室神社は、この帆柱を根太にして建てられ たと伝えられている。

 石廊権現の由緒は役小角に結び付けられている。「石廊山金剛院縁起」によれば、役小角伊豆大島へ流されたとき、十一面施無畏の神力 を得てこの地に至り、後に村人の一人が夢の中で 海中より宝殿が浮かび上がって岬に座すのを見て、十一面観音が安置された宝殿が建っていたとされる。さらに、秦の始皇帝5世の孫と云われ 日本に帰化した弓月君(ゆつきのきみ)の子孫で秦氏と名乗った一族が、弓月君を物忌奈之命(ものいみなのみこと)としてここに祀ったとい う説もある。役小角秦氏一族と伝えられ、また、伊豆半島南部の地域は畿内から紀伊半島の熊野を経由して黒潮に乗って渡ってきた秦氏一族 の賀茂氏が開いたことから賀茂郡と呼ばれている。

 修験道の開祖で不老不死の仙人であったとされる役小角、東海の蓬莱島に不老不死の妙薬を求めて旅立った徐福の子孫とも伝えられる秦氏、不老不死というキーワードで繋がる 両者がここでオーバーラップしてくるのはただの偶然ではなく、石室神社のあるこの場所が持つ力(ゲニウス・ロキ)がそれだけ強く、マジカ ルなものに惹かれた人間を昔から集めてきたことを表しているといっていいだろう。

 石室神社の社からさらに岬のほうに進むと、小さな祠があり、その格子戸にたくさんの絵馬やみくじ札が結び付けられ風に踊っている。 この熊野神社は縁結びの神様として人気を集めている。

 熊野神社の由来は、昔話に以下のように伝えられている。「石廊崎近くの長津呂という集落にお静という名主の娘がいた。お静は漁師の幸吉と恋に落ちたが、身分違いと許され ず、幸吉は沖にある神子元島に流されてしまう。幸吉が恋しいお静は毎夜石廊崎で火を焚き、神子元島の幸吉もこれに火で答え、互いを思い続 けていた。 ある晩、神子元島の火が見えないのを心配したお静は、小船を出して神子元島に向かう。しかし、お静の船は高波に煽られて危うく難破しかけてしまう。お静が無我夢中で神に祈 ると、その祈りが通じたのか、波は収まり、神子元島の岸辺に流れ着く。この後、親も二人の仲を許し、 二人は結ばれて末長く幸せに暮らした」。

 お静が火を焚いた場所に安置されたのが熊野権現で、この故事に因んで熊野権現が縁結びの神様とされるようになった。結婚に関して様々 な困難を持つカップルにとって霊験あらたかと、古くから信じられてきたという。

 そもそも伊豆地方における火山の神は、「火=溶岩」と「水=海」を結びつけて、あらたな大地を作り出すことから、縁結びや子孫繁栄の 神として信仰されてきた。同じ火山の神を祀る伊豆山神社では、水を象徴する白い龍と火を象徴する赤 い竜が雌雄一対で土地に眠っているとされ、やはり古くから縁結びと子孫繁栄の神として崇められてきた。

 次の章では伊豆独特の「来宮信仰」の聖地を紹介するが、海から神や人や様々な文物がやって来た伊豆は、新しい文化の玄関口でもあり、 とくに創造的なアーティストや文人墨客を惹きつけてきた。近代では、下田が長い鎖国にあった日本を開国するキーポイントとなる。伊豆とい う土地を俯瞰すると、大地の胎動と海の還流力とがこの場所で大きなうねりを生み出しているのが見えてくる。

 石廊崎から北西へ直線で 1.5kmほど。雄大な草原が開ける一角がある。池の原とよばれるこのあたりは、約40万年前に噴火した南崎火山の溶岩が険しい谷を埋め立てて作り出した。ユウスゲが自生 する ことから「ユウスゲ公園」として整備された遊歩道を巡れば、石廊崎周辺の荒々しい海岸とは対照的になだらかな草原が続く。丘の上の展望台から周囲の岬や島々を見ると、白や 灰色、赤褐色の地層が積み重なっているのが見渡せる。石廊崎から出港する遊覧船に乗って海側から観察すると、池の原の丘が白い岩石からな る基層部 に南崎火山から噴出した灰色の溶岩流や赤茶色のスコリアが乗ってできたものであることが観察できる。

 遠く南方の島嶼がはるばる北上して日本列島にぶつかって伊豆半島となったのが100万年前、それから60万年を経て、半島の突端にあ る火山が噴火し、海に大量の溶岩を注いだ。それから40万年後の現在へと続く大地の歴史を想像しながらこの風景を眺めると、巨大な時空間 の中で自分が生きているということを実感できる。

 風景は、それを作り出す地球の生理を知って眺めれば、秘められた歴史を饒舌に語り始める。2012年には、ユウスゲ公園にほど近いあ いあい岬にジオパークビジターセンターが設けられ、「伊豆ジオパーク」の拠点の一つとされたが、伊豆という土地にやってきたならば、ぜひ ともジオパーク的な観点=大地の歴史を意識して、その風景を眺めてみてほしい。

 

4.【来宮信仰の聖地】

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 1994年、白濱神社の北に浮かぶ竜宮島と呼ばれる小島に、一体の木彫りの観音像が流れ着いた。島にほど近い板戸浜で民宿を営むお婆 さんがこの観音像をみつけ、島の丘の上に仮安置した。

 何度か嵐が通り過ぎ、それでも観音像は置いたままの姿でそこに立っていた。これはただの像ではないと感じたお婆さんは1998年に小 さな祠を建て、その中にこの像をに安置した。

 伊豆東海岸には来迎神を祀った来宮信仰が多く残る。熱海来宮神社、八幡野来宮神社、河津来宮神社はいずれも岸辺に流れ着いた神像をご 神体として祀ったのが始まりとされている。また、京都本国寺に安置されている日蓮宗の寺宝「立像釈迦像」も、日蓮の伊豆配流の際、地頭か ら寄進されたもので、もとは伊東の漁師の網にかかって引き上げられたものだと伝えられている。

 伊豆半島は、黒潮の流れの中に突き出したような格好になっているため、太古から、この海流に乗って、人や物、ときには神や仏まで漂着 してきた。

 伊豆半島南部は「賀茂郡」だが、この名に残る賀茂氏のように、山城の国と呼ばれた京都付近から紀伊半島を縦断し、さらに黒潮に乗って 大挙して伊豆半島に渡ってきた渡来民もたくさんいた。

 縄文時代から伊豆諸島の住民たちとの交流も盛んで、神津島に産する黒曜石を陸揚げし全国に流通させる中継地の役割も担っていた。

 伊豆半島の沿岸部は背後に山が迫り、他から隔絶された集落が点在するように見られるが、前面は世界に繋がる広大な海が開け、海を通じた外界との交流が盛んだった。半島と いうと一般的には他所との交流の少ない閉鎖的な印象がありるが、伊豆の人はまったく逆に開放的で、新 たな人や物を躊躇なく受け入れる。そんな気質も黒潮が育んだものといえるだろう。

 そして黒潮が運んできた様々な記憶は、「来宮信仰」という形でしっかりと伊豆に根を下ろしている。伊豆半島東沿岸から相模湾の一部沿岸にかけては、来宮神社が点在する。 伊豆にしかない来宮信仰は、黒潮と密接に関わる伊豆の歴史が凝縮されている。そして、この信仰を遡っていくと、黒潮によって繋がる広い世 界への展望が開けていく。

 来宮神社に共通するのは、黒潮に運ばれて流れ着いた神像や仏像がそのご神体であり、その神様の性質がおしなべて南国的で大らかであるこ と、そして、いずれも境内に巨大なご神木を有して「木宮」とも呼ばれることだ。樹齢1000年を越える巨木は太古の森の名残りを留めるも のでもあり、伊豆に息づく精霊の気配を濃厚に発している。さらに「来宮」は「紀宮」とも記され、紀伊半島との深い繋がりを連想させる。 また、「貴宮」の表記が用いられることもあり、これは都の尊い者の記憶を密かに留めている。



熱海来宮神社
  --谷を覆う宇宙樹の聖堂--
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 JR伊東線来宮駅からほど近い熱海の市街地の一角に来宮神社がある。ここには、樹齢2000年と伝えられる大楠がご神体とし て祀られている。古代の神道信仰では、今のような社殿は持たず、ご神体山や岩を直に拝む形式の自然信仰の色彩が強いものだったが(奈良県三輪山信仰など、今でもプリミ ティヴな信仰形態を残すところもある)、この熱海来宮神社も近世までは現在のような社殿はなく、大楠の前に小さな祠が置かれているだけ で、素朴に巨木と向い合ってこれを拝む形 だったと伝えられる。江戸時代末期までは「木宮明神」と呼ばれ、地元の地主神として素朴な信仰を伝えていた。

 巨樹巨木は、世界中の創世神話によく登場する。それらは、世界を支える世界樹であり、宇宙と繋がる宇宙樹であると考えられた。

 スカンジナビア創世神話『エッダ』には、トネリコの巨木「ユッグドラシル」が登場する。ユッグドラシルは枝が世界全体を覆うほど巨 大で、その根は地下世界「アジール」や氷の巨人が住む「霜のツクセル」、さらにその下の死者の世界にまで届いているとされていた。ギリ シア神話では、トネリコの巨木はポセイドンに捧げられ、オークの巨木がゼウスを象徴していた。エジプトでは巨大なイチジクの木が世界 を支えていると考えられ、北アジアでは樅の木が、シベリアでは樺の木が世界を支えていると考えられていた。世界中のそれぞれの土地で、その地にしっかりと根づいた巨木は、 はかり知れない威厳を湛え、その姿に超自然的な力を感じ取った古代の人々は、土地の神=ゲニウス・ロキ (地霊)の現れだと思った。

 現代でも、巨樹巨木は古来からの世界樹や宇宙樹というモチーフでしばしば登場する。映画「アバター」では、惑星パンドラに住むナヴィ と呼ばれる人型生物たちが、「ホームツリー」と呼ばれる巨木を住処とし、この木をこの上なく神聖なものとして崇めていた。「となりの トトロ」では、サツキとメイが住む家を見守るように聳える巨木がトトロの住処だった。いずれも、巨木は生命や土地の象徴として描き出され ていた。

 熱海来宮の大楠は、伊豆随一のパワースポットとしてメディアで紹介され、参拝する若い女性の姿が目につく。東海道線来宮駅から歩 いてくると、まず本殿に出迎えられ、さらにその横手に回り込むとふいに大楠が立ちはだかり、だれもが一瞬たじろぐように足を止める。 二股に別れた幹の片方は残念ながら枯れて伐採されているが、それでも幹周りは24mあまりあり、相対する者を絶句させるだけの迫力を 持っている。

 根本に立って見上げれば樹冠が空を覆い尽くし、巨大な聖堂の中に佇んでいるような重厚な空気に包み込まれる。この自然と 溶け合ったような感覚が、古代から現在まで巨木を崇めるコアになっているのだろう。

 来宮神社の由緒書きには、この神社が「漂泊神(来迎神)が来た」ことを意味する来宮の性格もはっきり持っていることも伝えている。 「今から凡そ千三百年前和銅三年六月十五日に熱海の海へ漁夫が網をおろしていたところ、お木像らしい物が之に入ったので不思議に思ってい たところ、ふとそこに童子が現れ「我は五十猛命である。」と言った。さらに、「此の地に波の音の聞こへない七体の楠の洞があるからそこへ 私をまつれ、しからば村人は勿論当地へ入り来る者も守護するから」と言うと同時に童子は地に伏してしまったので、村人一同で探し当てた所 が、今の此の地であり、毎年六月十五日(新暦の七月十五日)になると海岸へ出て当時を偲ぶお祭りを行う。(七月の例大祭。こがし祭)」

 黒潮に乗った神像が漂着し、それが神として祀られるというのは、伊豆を中心に点在する来宮神社に共通するモチーフだ。また、七体の楠 があると記されている点は河津の来宮神社と共通する。

 五十猛命は日本神話では須佐之男命の息子であり、様々な樹木の種を持って朝鮮半島に降臨し、さらに日本に渡って、日本を緑あふれる国 にしたと記されている。そんな由来から林業の神とされ、とくに林業の盛んだった紀州でその信仰が篤い。その五十猛命が海からやってきた渡 来神であるということは、紀州との繋がりを物語る。

 さらに、「七本の楠」が登場するが、神道密教で七つのランドマークが示唆される場合、妙見北辰信仰の構図を考慮して みる必要がある。天の中で不動である妙見(北極星)とそれを守護する北辰(北斗七星)を地に写しとるようにランドマークを配置し、聖 地に結界を張るもので、二つの来宮に現れる七という数字が、妙見北辰信仰由来であれば、七つの大楠は北斗七星の形に配され、北極星の位置 にある重要なアイテムを守護する構造になっていたと考えられる。しかし、残念ながら、現存する大楠と数本以外の痕跡はなく、史実にも位置 をはっきりと特定できる記述はない。これは、今後、シミュレーションしながら検証してみたい。

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音無神社・葛見神社
  --頼朝と八重姫のロマンスが伝わる社に残る巨木・来迎神が宿る大楠--

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 伊東市の市街地の一角にある音無神社は、若き源頼朝と伊東の領主の娘八重姫の恋物語が有名な神社だ。小川の辺りにあ るこの場所で二人を逢瀬を重ね、二人が佇む間、傍らの小川が瀬音を止めたという伝説が名の由来となったと伝えられている。

 11月の例祭「尻つみ祭り」は、真っ暗な社殿の中で神事を行い、お神酒を回す際 に隣の人の尻を摘んで合図する不思議な祭りだ。古くは歌垣などが行われ、子孫繁栄を願っていたのかもしれない。その名残が不思議な祭りの風習となって残ったのだろう。

 社殿の軒には、底の抜けた柄杓がびっしりと並べられている。これは安産の神でもある祭神豊玉姫命に、安産を願うために奉納されたもの だ。穴の空いた柄杓で水を汲むと、その水が底からこぼれ落ちるように、安産で母子ともに健康であるようにという思いが篭っている。また、 裏の意味を勘ぐれば、水子供養という意味もあったのかもしれない。

 境内には楠と同じ暖地性の木であるタブの木とシイの巨木があり、土地の勢いを物語るように枝葉を大きく広げ、夏の間は伊東市民の憩い の場になっている。

 音無神社のほど近く、溶岩台地が背後に迫る谷筋に葛見神社がある。祭神の葛見神が海からやってきてこの 地を拓いたという来宮信仰に共通する由緒を伝えている。社殿の背後に聳える大楠は、樹齢1000年と伝えられ、幹周り15m、樹高30mという堂々としたもので、熱海来宮 神社の大楠と同 じく国の天然記念物に指定されている。

 境内一帯は縄文時代の祭祀遺跡でもあり、風水でいえば背後に龍脈を背負う龍穴のような地形となっている。大地から湧き出す力が強いポ イントであり、長く聖地として拝されてきたことがわかる。




八幡宮来宮神社
  --白濱神社と地底世界で通じる太古からの聖地--

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 伊豆急伊豆高原駅の周辺は戦後にリゾート別荘地としての開発が進み、エキゾチックで華やかなムードに溢れているが、南にしばらく 歩くと、八幡野という昔からの地名がぴったりの長閑な日本的風景に変わっていく。そんな八幡野の素朴な集落のはずれに、八幡宮来宮神 社が佇んでいる。

 国の天然記念物に指定されている叢林に囲まれた社殿は、その植生が南方の照葉樹林に近いせいか、どことなく奄美や沖縄の御嶽のような雰 囲気で、参道の先に見える海の波音も届かず静まりかえっている。

 ここでは、地元の高校で長く教鞭を取られ、退職後は地元のコミュニティセンターの事務局長を勤める傍ら郷土史を研究されている江黒俊男 さんが案内してくれた。

 江黒さんによれば、社伝では誉田別命(応神天皇)を祀る八幡宮と伊波久良和気命(いわくらわけのみこと)を 祀る来宮神社が、8世紀末の延暦年間に合祀されたものと伝えられているものの、実際は、ここには小祠しかなく、明治の初めの神社合祀令に よって周辺の小さな神社をまとめてここに置いたものだろうということ。祭神については延喜式神名帳の中から適当なものを探し、この周辺 が昔から八幡野と呼ばれていたことに因んで、八幡宮の祭神である誉田別命を持ちだしたと推定される。

 明治政府は、国家統治の原理として国家神道を採用する。それまでは土着神や産土神などを各集落で祀り、また神道仏教と習合して、寺 と神社は現在のように画然と分けられたものではなかった。国家神道を国内の隅々まで行き渡らせることを目的として神仏分離が図 られ、また土着の神や産土神は統合されて、一村一社として合祀、統合された神社は平安時代に定められた延喜式神名帳の中の神を主祭神とす ることとされる。

 このとき、寺が廃仏毀釈によって徹底的に破壊されたのは有名だが、国家神道の系列から外れる小社も寺と同じ憂き目に 遭い、この八幡宮来宮神社のように便宜的に祭神が決められたりして元の由来が不透明になってしまったケースも挙げればきりがない。

 史実があまり信用出来ないとなると、いちばん頼りになるのは方位だ。

 この八幡宮来宮神社は参道は東を向き、鳥居を潜って中に入る と、さらに森の奥にある本殿へ向けての参道は北西方向へと向きを変える。本殿を背にしてこの参道が向く方位を測ると、117°を示す。伊豆中部のこのあたりの緯度では、冬 至の日の出の方位が118°なのでこれにほぼ合致する。

 この事実を確認して、案内の江黒さんに質問した。

「この社殿と参道は、冬至の日の出の方向なのですが、もしかしたら、もとは縄文遺跡ではありませんでしたか?」

 そんな私の質問に、江黒さんは、驚いた顔で答えた。

「遺跡という形では発掘されていませんが、社殿の周囲からは土器や石器の欠片や黒曜石の鏃なんかがよく出てきます。この下の畑からもよく 出てくるんですよ。でも、どうしてここが縄文時代と関係があるのがわかるんです?」

 夏至冬至を意識した聖地は、太古の太陽信仰に結びついているケースが多く、日本では縄文時代の祭祀場にこれが顕著なことを説明するとと、江黒さんは何度も頷いて納得さ れた。

 さらに磐座のようなものはないかと質問すると、彼は本殿の裏へと案内してくれた。そこには崖に穿たれた洞窟の入口があり、注連縄が掛 けられている。この洞窟は神社との関連性は不明ながら、昔からこの土地では、この洞窟は下田の白濱神社に繋がっている と伝えられてきたのだとのこと。

 白濱神社は、伊豆半島最古の神社とも伝えられ伊豆の創世の要となる社だ。そして白濱神社には典型的な 縄文時代の祭祀場跡が存在する。八幡宮来宮神社縄文時代の祭祀場だったとすれば、両社の結びつきはかなり密接だった可能性が高くなる。

 八幡宮来宮神社から南東へ1kmあまり下った海岸に「堂の穴」と呼ばれる海蝕洞窟がある。来宮は元々ここに置かれていたと伝えられ ている。

 太古、海の彼方から瓶に乗ってやってきた神がここに漂着し、ここに祀られた。この神様は無類の酒好きで、沖を船が通る度 にこれを呼び止め、船人に神酒の奉納を強要したため、困った人々が山の中にある「元屋敷」と呼ばれる場所に祀り直した。しかし、ここ からも海が見えてしまい、相変わらず通りかかる船に神酒をせがんだため、さらに森の奥の現在地に遷祀したとされる。なかなか人間味のあ るユーモラスな神様だ。この逸話は、次に紹介する河津来宮神社の由来にも繋がっていく。

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八百比丘尼像 ・善應院
  --不老不死伝説と「稲取」の地名の深い関係--

hachimanguu

 若狭の小浜に伝わる伝説に、「八百比丘尼」がある。若狭の遠敷(おにゅう)という山里に生まれ育った少女が いた。ある日、こ の少女の父親が仙人の宴席に招かれ、そこで出された人魚の肉を持ち帰った。少女は人魚の肉と知らずにこれを食べて、不老不死になって しまう。

 親兄弟や知り合いたちが死に絶えても自分一人は老いることなく天涯孤独となった彼女は、尼となって全国を遍歴する。八百年の後、故郷 の若狭に戻った彼女は、そこでようやく命を終えることができたという話だ。

 稲取にも、若狭から流れ流れて八百比丘尼が辿り着いたという伝説があり、古くから港の傍らに置かれた石像が八百比丘尼の像であると言い伝えられてきた。

 今では風化が激しく、各部は欠け落ちて顔もはっきりとはわからないが、立膝をして祈っているようなフォルムであることはわかる。これは、朝鮮半島の仏像によく見られる フォルムで、この像の由来も朝鮮半島にあるのではないかと思わせる。

 若狭の八百比丘尼の伝説は、大陸から朝鮮半島を経て日本にわたってきた渡来民が伝えていた不老不死にまつわる伝説が元になっていると も考えられている。その渡来民たちは、若狭から現在の京都、奈良を経て、紀伊半島の南端まで達し、そこから黒潮に乗って伊豆まで達したと いう説もあり、八百比丘尼の伝説が若狭か ら遥かに隔たった伊豆に伝わっているのは、黒潮に乗ってやってきたその渡来民が伝えたものとも考えられる。

  稲取の港を見下ろす小高い丘の上には、伊豆八十八ヶ所霊場の三十二番札所「善應院」がある。ここは、嘉吉元年(1441)に熊野水軍の末裔である鈴木孫七郎繁時によっ て創建された。この鈴木家の家紋が稲と八咫烏であったことから、この地の名を「稲鳥」とし、後に 「稲取」になったとされる。この逸話からも紀伊と伊豆の深い結び付きが伺える。

 八咫烏サッカー日本代表のシンボル マークとして知られているが、これは元々、神武天皇東征の際に、紀伊半島に上陸した神武天皇一行を道案内したと伝えられる三本足の烏 で、熊野本宮大社の祭神ともなっている。八咫烏を賀茂県主として氏神に祀っていたのが賀茂氏であり、彼らは大陸からの渡来民である秦氏の一族で、主に祭祀を取り仕切ってい た。賀茂氏の本拠地の一つである紀伊半島と伊豆は黒潮で結ばれ、伊豆の賀茂氏へと繋がってい る。

 伊豆半島東海岸には、稲取八百比丘尼像と同じような石像が各地に残されている。それは「賽の神」と呼ばれて、集落に疫病や魔が進 入するのを防いでいるとされている。これは、八百比丘尼が象徴する「不老不死性」が、時を経るうちに「魔除け」と解釈されるようになり、 それが今に続いているのかもしれない。




河津来宮神社(杉鉾別命神社)
  --色濃く残る太陽信仰と隠された神--

hachimanguu

 河津来宮神社も熱海来宮神社八幡宮来宮神社と同様に来迎神をご神体とする神社であり、また巨木信仰も併せ持っている。伊豆半島東海岸から相模湾沿岸にかけては、来宮神社の他に、木宮神社、貴宮神社という同じ「きのみや」と呼ばれる神社が多く点在している。

 来迎神の由来は、黒潮によって繋がる紀伊半島の信仰がもたらされたものだが、その中には、熊野から補陀落浄土を目指して渡海した修行者が黒潮に乗って伊豆半島まで流れつ き、地元民によって神に祀り上げられたといったケースも考えられる。八幡宮来宮の来迎神は、瓶に乗って漂着したと伝えられているが、小舟 に密閉された小屋を掛けられた補陀落渡海船は、大きな瓶か壷として例えられたのかも しれない。

 紀伊半島は濃密な自然に覆われ、熊野の本山とされる玉置山などは、今でも巨木信仰を色濃く残しているが、同じような自然環境を持つ伊 豆半島で巨木信仰が顕著に見られるのも、熊野信仰の影響とも考えられる。

 河津来宮神社は、境内の国指定天然記念物である大楠が有名だ。本殿の横にある大楠の他に、本殿手前と参道の入口にも大きな楠がある。入口の大楠の幹には、「天然記念物の 大楠は、この樹ではありません。境内の奥にあります」との札が掛けられ、参道を進んで行くと、右 手にさらに大きな楠があり、「これか」と思って近づくと、この樹の幹にも先ほどと同じ札が掲げられている。二度ももったいぶられ、「こ れで大したことがなかったら許さんぞ」と思いつつ、本殿の裏手に回ると、そこにある大楠にはただただ圧倒されて、言葉を失ってしまう。

 手前の 二本の樹も立派なものだが、「こんなもので驚くなよ」と執拗に札を掲げた人に、思わず共感してしまう。

 樹齢は1000年とも2000年ともいわれ、幹周りが15メートルを越えて、深く入り組んだその皺が燃え上がる炎のようにも見えるこの 巨木は、文句なしに河津の「主」と言っていい。近年、河津来宮神社は熱海来宮神社と同様に「パワースポット」として、人気を集めてい るが、熱海の大楠が生き物としてのピークを過ぎて、異界との繋がりをより強く感じさせる妖しい雰囲気をたたえているのに対し、河津の大 楠はこれからまだピークを迎えようとする若々しさを備え、その力を分け与えてくれるように感じさせる。幹には張りがあり、樹冠の隅々に まで生気が行き渡っていて、見ているだけで力強さと清々しさを覚える。

 河津来宮神社の正式名は「杉鉾別命(すぎほこわけのみこと)神社」。祭神である杉鉾別命に因んだ名だが、この神は延喜式にその名は登場するものの詳細は分かっていない。 当社の川津龍重宮司によれば、明治初期の神社合祀の命により、近在集落の小祠を集めて合祀した際に、延喜式神名帳の中から適当に選んだも のとのこと。ここは元々神仏習合の神宮寺であったものの、寺を廃し神社として一本化されたという。

 神宮寺であった時分には、大楠の下に祠が祀ってあり、その中に、小さな神像が納められていたという。その神像は、神社合祀で大きな本殿が建てられるとその内奥に納めら れ、以後、秘像とされた。代々、その神像を見ると祟があると伝えられ、川津宮司も神像を目にしたこ ともなければ、納められている厨子を開いたこともないという。

 この神像は、はるか昔に来宮神社の南東1kmほどの木の崎(現在は鬼ヶ 崎)と呼ばれる海岸に流れ着き、最初はその場所に祀られ、後に今の場所に移されたという。神像自体は秘像だが、伝説ではこれに宿った神はしばしば姿を現して、沖を通りかか る船に酒をねだったという。このモチーフは八幡宮来宮神社の祭神の逸話と同じだ。八幡宮来宮神社では海が見えるとうるさく船に酒をねだる ので、海の見えない谷奥に移したとされるが、河津来宮神社の祭神は、本殿 に神像が安置されるときに海の方向ではなく天城山のほうを向くように置かれたという。

 河津来宮神社の氏子には、「酉精進・酒精進」という面白い風習が伝わっている。これは、毎年12月下旬の冬至を中心にした一週間、 卵・鶏肉・酒を口にしないというもので、この間は給食のメニューからも鶏肉や卵は外されるほど徹底している。

 昔々、来宮の神は野原で酒を飲んでいて、そのまま眠ってしまった。気がつくと山火事の火に囲まれ、身動きがとれなくなっていた。そのまま焼け死んでしまうと覚悟したその とき、空を真っ黒に覆うほどの鳥が飛んできた。鳥たちは、来宮の神の頭上で羽についた水 を振り落とした。羽の水が無くなると、鳥の群れは近くの河津川まで飛んで行って水に入り、羽にたっぷりと水を含ませて戻ってきて、また羽から水を振り落と す。それを繰り返すうちに、火は収まり、神は助かった。「酉精進・酒精進」は、この伝説に因んだ風習だ。

 沖を通る船に酒をねだった八幡宮来宮の神といい、河津来宮の酒に酔いつぶれた神といい、なんと人間臭い神様か。キャラクターがともに似ているのは、神に見立てられた漂着 民が同じような民族か、難破した水軍の乗組員だったかのような印象を受ける。それはともかく、河津の「酉精進・酒精進」は、この風習が行 われる時期に興味を惹かれる。

 「酉精進・酒精進」冬至を中心とした期間に行われるのは、太陽信仰との関連性が考えられる。太陽信仰に おいて冬至に行われる祭りは太陽の再生を願うもので、祭りの前には精進潔斎し、冬至を過ぎたら太陽の再生を祝って酒も肉も解禁になる。「酉精進・酒精進」の儀式はこの冬至 祭りに符合する。

 太陽信仰はもっとも古い自然信仰の形で、世界中の太古の遺跡にその痕跡が見られる。ヨーロッパに多いストーンサークルやドルメン、メンヒルといった巨石遺構は一年の太陽 の動きを追いかけ、春分夏至秋分冬至という節目の日の太陽を正確に観測すると同時に、その場で、節目の日の祭りが行われる場所でも あった。

 日本でも、縄文時代の遺跡には太陽信仰の祭祀場が多く、さらにその場所に後に神社仏閣が置かれたケースも多く見られます。

 河津来宮神社は姫宮遺跡という縄文遺跡の中にあり、かつての祭祀場であった可能性が高い。河津来宮神社の1kmほど東の高台に は見高神社があり、西を向いた社殿が河津来宮神社の方向を示している。春分秋分の日には、太陽は真東から昇り、真西に沈むから、 河津来宮神社と見高神社は一年に二度、太陽の光によって結ばれる配置になっているわけだ。また見高神社の背後には段間遺跡という縄文時 代の遺跡があり、神津島産の黒曜石が大量に出土している。このことは、両社が縄文時代の祭祀遺跡の時代から、太陽信仰のネットワークを形 作っていたことを示している。

 天城山塊に発する河津川が広い入江に達して海に注ぐその河口に開けた河津の町は、町の中心を流れる河津川に並行して街路が引かれ、家屋 は海に向けて建てられている。河津来宮神社も参道は河津川に並行し、社殿はまっすぐ海を向いている。神社は社殿を南に向け、参道も南北方 向に伸びているのが普通だ。それは、妙見北辰信仰に由来し、天の中で不動の妙見(北斗七星)を背負う形で社殿が置かれ、神の不滅性を示す からだ。だから、通常、神社に参拝すると、南から北へと参道を辿り、北極星を背負った神社を拝む形になる。

 地形の 関係で南を向けられない場合もあるが、それを別とすれば、南面していない神社は、太陽信仰を反映して夏至冬至の太陽の出没方向に向 けるケース、あるいは別な聖地を指し示していると考えられる。河津来宮神社の場合は、一見すると地形に合わせているように見えるが、周囲を見渡すとかなり広い平地にあっ て、南面させるのに不都合はなさそうだ。それでも南面させていないのは、何か意味がある。

 現在の社殿の向きを見ると、ちょうど伊豆急線の河津駅の方向を指している。川津宮司によれば、さらにその先、海のむこうの新島を指しているといい伝えられてい るとのこと。デジタルマップで検証してみると、たしかに新島の方向を指している。そして、新島からさらにそのラインを伸ばしていくと、三 宅島に達するのがわかった。

 三宅島は伊豆諸島開闢の神である三嶋神の発祥地 で、後に三嶋神は妃神や伊豆諸島開闢をともに行った神たちとともに、伊豆半島に渡ってきたとされている。その上陸地が白濱神社で、三嶋神はさらに単独で現在の三嶋大社に遷 座したとされている。

 河津来宮神社が三宅島を指しているということは、三嶋信仰と関係が深いことを暗示している。 また、河津はかつて新島との交易が盛んで、新島から河津に渡って住み着いた人も多かったと伝えられているから、新島を指していることにも意味がある。住民の故地である新島 と三嶋神の故地である三宅島を一直線に結ぶ場所ということが、この場所の聖地性であり、社殿の向きも重要な意味があることがわかる。

 この神社の本殿は外家の中にあって普段は見ることができないが、特別に外家を開けてもらって本殿を拝することができた。そこには、三 嶋大社との関連性を示すものがもう一つあった。

 本殿正面には立派な彫刻が施されている。杯を手にした仙人が龍と向かい合い、龍をいなしながら心地良さ気な表情を浮かべている。盃を 持つ仙人というモチーフは酒解神(さとけのかみ)を表すが、酒解神とは酒造りを人間に教えた大山祇神のことだ。そして大山祇神は三嶋神と 同体だとされている。大山祇神は海と山を統べる神であり、海からやってきたというこの神社の祭神の由来にも、そして大楠をご神木として崇 めることにも符合する。

 この彫刻は、由来がはっきりしている。嘉永年間に伊豆で活躍した堂営建築彫刻師の石田半兵衛が手がけたもので、まったく同じモチーフ の彫刻を伊豆大川の三島 神社にも残されている。つまり、伊豆大川でははっきりと三嶋神に結び付けられているわけだ。

 河津来宮神社の本殿が新島からさらにその先の三嶋神の発祥地である三宅島を向いていること、三嶋神を表す彫刻が本殿正面に彫られていること、この二点だけでなく、さらに この神社と三嶋信仰との結び付きを示す事実がある。一つは、この神社の宮司三嶋大社の神官が務めてきたことだ。現在の川津宮司も三代前 は三嶋大社の神官で、その後世襲して今の川津宮司に続いている。もう一つ興味深いは、三嶋大社が正確に河津来宮神社を向いていることだ。

 先に記したように、三嶋大社の祭神である三嶋神は、三宅島から白濱神社に渡って鎮座し、さらに三嶋大社遷座した。その歴史をなぞるように、白濱神社と三嶋大社を結ぶ下 田街道が伊豆半島の内陸部を縦断して伸びている。三嶋大社から見ると下田街道は真っ直ぐ河津へ 向かって南下し、河津から下田へは急に西に折れる。これは河津が地理的な分岐点であることもあるが、河津来宮神社三嶋大社にとっても重要な意味をもっていると考えられ る。

 河津来宮神社は、周囲の神社や縄文遺跡とも有意な位置関係で結ばれているから、それらを総合的に見れば、古代、この場所が非常に重要な聖域 だったといえる。
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