読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

茅ちゃん日記

世の中のこと、思うことをつづります

三宅記の資料置き場

 

古代史探偵

plaza.rakuten.co.jp

2010.05.28

XML

 

カテゴリ:カテゴリ未分類

三宅記 

 

 

伊豆半島の三宅島の壬生家に伝わる「三宅記」の原文を載せたいと思います。

来週から、この原文を解読しながら話を進めて行きたいと考えています。

 

 

白浜大明神縁起(原文)「三  宅  記」     

 

仰昔天竺に帝王ましましき。其王に八人の后有り。其の中に光生徳女とて妻愛の后有り。或時帝王彼の后に向い給いて仰せ有りけるは、我既に齢四十に餘ると雖も、未だ王子とて独りも無し。如何はせんとの給えば、后答させ給うは、我れ八日に生れぬれば、常ね常ねに薬師如来を信じ奉りぬ。此度も薬師へ願奉らむとて、薬師へ詣給いて、三七日籠り給うと雖も印し無し。去れどもかくては捨て難しとて、五七日籠り給いて深く願い給えば、五七日の夜寅の時斗りに、歳の齢六十斗り成る老僧の、黒き衣を着て、水亀とおぼしきを左の御手に持より給いて、仰せありけるは、此ころ願深かしと雖も、かつて與うべき子種とては無けれども、夜を重ね日を重ね願う心の深ければ、汝に是を與うとて金の笏を與へ給うて仰せありけるは、是は汝が願處の王子の命ながかるべき薬なりとて、亀なる水の水を竹の葉にて三度左の手に入給いて、又仰せありけるは、あながちに願う心の深きにより、止む事無くて與うと雖も、此の王子七歳の時こそあさましからめとて、かきけすように隠れ給いぬ。其時后大きに喜び給いて下向ありける。夫れより十二月に當りたる正月八日に、王子御誕生ありけり。

帝王大きに悦び給いて。いつきかしづき奉り、八日に生まれ給えばとて、一大薬師と申し奉りける。然る所に年月漸く重りて、此君七歳に成り給へる時、御母の后空く隠れ給いぬ。

 

 

 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-

 

伊豆諸島の神話「三宅記」

伊豆諸島には独自の神話がある。水配り神話だ。その昔、事代主命によって伊豆七島が作られた。あるとき、水を配るために神津島で神々の会議が開かれた。結果、翌日、先着順に水を分け与えることとなった。

DSC05404

最初に来たのは御蔵島御蔵島はたくさんの水を得た。次に新島、八丈島、三宅島、そして大島が来て、それぞれ水をもらった。

DSC05410 ところが、朝寝坊をした神がいた。利島である。ようやく利島がやってきたとき、すでに水はほとんどなかった。怒った利島は残りの水をぶちまけた。これによって神津島では島中、水がわき出て池がある一方、利島は水がほとんどない島となったという。

DSC05406

伊豆諸島には、このように独自の神話がある。主神ともいうべき事代主命については、三嶋大明神という名前で古史古伝「三宅記」に登場する。なんでも、事代主命は、もともとユーラシア大陸の向こう、インドの王子だったという。

三宅記072

渡来人の伝承を思わせる神話である。実際、神津島でも祀られている物忌名命について、伊豆半島石廊崎にある石室神社の伝承では、なんと弓月君の別名であるとする。弓月君といえば、ユダヤ系とも噂される謎の渡来人、秦氏の首長である。

ひょっとしたら「三宅記」は、秦氏も関わっているかもしれない。知られざる古史古伝「三宅記」については、絶賛発売中の月刊「ムー」9月号を読んでいただければ幸いある。

 

-+-+-+-+-+-+-+-+-+-

賀茂探求(28)伊豆の三島神社について(28)

 

賀茂探求(28)伊豆の三島神社について


written by Lumi on 00/05/11 08:51.
さて、いよいよ伊豆の三島神社について書きたいと思います。

伊豆半島のつけ根付近、三島市にある三嶋大社が全国三島神社の中核になり
ます。神社を分類する人の中にはこれを大三島山祇神社を中心とする山祇
神社の系統と一緒にする人もあるのですが、それはやはり違うと思います。
その理由については以下で明らかにします。

この神社は延喜式では伊豆国賀茂郡の所に「伊豆三嶋神社・名神大・月次新
嘗」と書かれています。ところが現在の御鎮座地は賀茂郡ではなく田方郡で
す。これについて多くの意見はこの神社が以前は現在の下田市・白浜海岸の
白浜神社のところに一緒に御鎮座していたとしています。

更に三宅島に残る三宅記にはこの神社が最初は三宅島にあったとしています。
これは現在富賀神社のある場所です。また大仁町広瀬神社の社伝には三嶋
大社が白浜から三島市に移動する途中、一時期この広瀬神社の地にあったと
伝わっています。これらの説を全て信用すると、三嶋大社は、

 三宅島富賀神社→白浜海岸白浜神社大仁町広瀬神社三島市三嶋大社

と移動してきたことになります。なお白浜神社は現在は三島明神の奥様をお
祭りしているのですが、伝承では白浜神社の地まで御夫婦で一緒に来たもの
の、奥様は白浜の地に留まり、三島明神だけ先へ行ったのだといいます。

なお御遷座の時期ですが、延喜式は927年に完成していますが吾妻鏡源頼朝三嶋大社に戦勝祈願した翌日伊豆国目代の館を襲撃したという記事があり、
これが1180年のことで、もしこの時三嶋大社が白浜にあったら物理的に困難
であるため、御遷座はその間ということになりそうです。

さて、この三嶋神社の御祭神は三島大明神なのですが、この三島明神の本体
については大山祇(おおやまずみ)神説と事代主(ことしろぬし)神説が昔から
あって、結局現在三嶋大社はこの両神を併記しています。

大山祇神説は神道集(室町時代初期)に収められた「三島大明神事」の記述が
有名です。これは、子宝の恵まれない伊予の長者の所に産まれた観音菩薩の
申し子がいろいろな経験の後、瀬戸内海大三島三島明神として顕れ、更に
その後、伊豆へ鎮座するまでの物語です。更に古くは鎌倉時代の東関紀行で
も大山祇神説が採られています。伴信友もこの「神名帳考」でこの説を採っ
ています。

さて、この「三島大明神事」に対して三宅島の壬生家に伝わる通称「三宅記」
別名「三島大明神縁起」という書があります。この書によれば、三島明神薬師如来の申し子として天竺に生まれます。ところが七歳の時に母が亡くな
ったあと、父の後妻とそりが合わず無実の罪に問われて追放になってしまい
ます。そして唐・高麗を経て日本に渡ってきて、富士山の神に出会って一緒
に島を作ろうということになりました。そして七日七夜の間に伊豆に十の島
を創成。そこに三島明神の八人の妃神と二十七人の御子神を配置したのだと
いいます。そして、その国作りの会議をしたのが神津島であるとされています。

観音菩薩薬師如来の差はありますが、わりと似た話です。ところがこの三
宅記の中で注目すべきなのは、ここに大三島三島明神が訪問して「あの峰
は面白いから私にくれませんか」と言って山をひとつもらう記述があること
です。つまり三宅記は伊豆の三島明神大三島三島明神は別であるという
立場に立っています。

この三宅記の発見者が萩原正平(1838-1890)です。彼は平田篤胤を信奉して
おり、その平田篤胤が実は三島明神事代主神説派でした。

彼はこの三宅記を事代主説を補強する重要文献ととらえ、更に伊豆諸島の民
話を採集していて「自分たちは事代主神の子孫である」とする神話を発見し
ます(*1)。そこで萩原はこのことを明治政府の教部卿大木喬任に報告。大木
もあるいは迷ったのでしょうが、結局事代主神大山祇神と一緒にこの神社
の御祭神として併記する決定を下すことになります。

(三宅記に「三島明神事代主神である」と書いてある、と書かれた本があ
るようですが、実際はそんなことは書いてないそうです。また同様にこの書
に富士山で大山祇神に出会ったと書いてある、と書かれた本もあるようです
が、そんなことも実際には書いてないそうです。実物を見てみたいが.....
できれば活字に直したやつで ^^;;)

菅田正昭はこの事代主神説を採っているようですが、事代主神は国を譲るこ
とになってしまった「とが」(咎)を受けて三宅島の富賀に行って鎮まり、こ
の「いづ」(出づ/伊豆)という地で再び新たな生を受けて、代わりに元いた
場所は「いづ喪」(出雲)になってしまったのではないか、という言霊的解釈
も見せています。

三島大社は伊豆の火山活動と密接な関係があります。この伊豆の地に式内社
が92座もあるというのも異様ですが(山城国だって122座しかない。隣の駿河
は22座、甲斐国20座、相模国13座)、その内伊豆諸島を含む賀茂郡に半数の
46座が集中しています。そして三島大社の神格も大きな噴火がある度にどん
どん上がっていったとされます。

 -----------------------------------------------------------------
(*1)これはそのまま、伊豆諸島の住民が事代主を信奉する賀茂一族であると
  いうことを表していると見てよいでしょう。すると三島明神自体が事代
  主神と考えるか、あるいは三島神社には三島明神事代主神が一緒に
  おられると考えるのが自然になりそうです。

  また伊豆諸島には神懸かりになって託宣する巫女の伝統があるとのこと
  で、これもまた託宣の神・事代主神にふさわしいように思われます。

三宅島 富賀神社

富賀神社の歴史
TOP │ 富賀神社の歴史 │ 募金のお願い │ 修復予定箇所 │ 工事の進捗状況
延喜式神名帳】阿米都和気命神社 伊豆国 加茂群鎮座
【現社名】富賀神社
【住所】東京都三宅村阿古
    北緯34度3分19秒、東経139度29分5秒
【祭神】事代主命 阿米都和気命 伊古奈比咩命
【例祭】 2月17日
     8月4日~9日(隔年)
     11月23日
【社格】旧郷社
【由緒】嘉祥3年(850)6月4日従五位下「文徳實録」
    仁寿2年(852)12月15日従五位上
    宝歴9年(1759)5月9日社殿修復
    安永元年(1772)社殿焼失
    文政2年(1819)6月社殿修復
    天保6年(1835)社殿修復
    明治7年5月15日郷社

【関係氏族】
【鎮座地】もと上の峯富賀平(雄山の八合目あたり)の地に鎮座
     その後、二島ヶ山(新富賀山・二富賀山。古錆浜にある荒島神社のあた     り。)     さらに現在地へ遷

【祭祀対象】
【祭祀】江戸時代には「三島明神」「富賀明神」「東国明神」と称していた
【社殿】本殿流造銅板葺
    拝殿・幣殿
境内社若宮神社・見目神社・劔神社・壬生神社

富賀山(海抜60.4m)の中腹に鎮座している。
伊豆諸島の総鎮守、静岡県の三島大社の総社と言われている。三島大社は本来この地に鎮座し、そのあと、三宅島富賀神社→白浜海岸白浜神社→大仁町広瀬神社→三島市三島大社と遷したという。

當社はもと上の峯富賀平(雄山の八合目あたり)の地に鎮座していたが、噴火により本殿を焼失し、その後、二島ヶ山(新富賀山・二富賀山ともいう。古錆浜にある荒島神社のあたり)へ移り、さらに現在地へ移ったという。
当社(当社というより当島)の神主職は累代壬生氏が襲継してきた。壬生家は三宅島でも最も由緒ある家柄で、神主職とともに代々地役人も兼ねてきた。
(蓋し壬生氏は、古代皇族の御養育に奉仕した家柄で、その一族の分布も相当に廣く、近国では駿河三河両国にもその移住がしられるから、同家も亦中央より移住したものであろうかと推定せられる。)
伊豆下田、伊古奈比咩命神社誌 P168より抜粋。


 事代主命(恵比寿様)は、父である大国主命(大国様)とともに出雲国島根半島から紀伊国に渡り、さらに、三宅島に渡ってこの神社付近に移住し、島中に漁業、農業を伝えて、この島の基盤を築いたといわれている。静岡県三島神社は本来、富賀神社より分祀された旨が事代主神の御事跡に明記されている。

 また富賀神社の御本殿地下には事代主神の御陵であるといわれ、神殿の地下からは古墳時代の土器や勾玉、耳飾りなどが発掘されており、現在それが保存されている。なかでも古鏡は奈良時代初期の古神である。
事代主神三宅島に宮居し神去ります。事代主大神の諸島経営せられし憑拠(ひようきよ)とすべき「三宅記」となす。(前文略)  

富賀神社宮司 壬生明彦
Copyright (c) 2007 富賀神社修復委員会 All Rights Reserved

三宅島 富賀神社