茅ちゃん日記

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保阪正康/『戦艦大和ノ最期』から私たちがいま学ぶべきこと〜その"言霊"を読み解く

2016年08月16日(火) 保阪正康

戦艦大和ノ最期』から私たちがいま学ぶべきこと〜その"言霊"を読み解く

敗れたがゆえに生まれた文学

 

米軍の爆撃を避け、急旋回する戦艦大和〔photo〕U.S. Navy, gettyimages

 

保阪正康(ノンフィクション作家)

「生者」と「死者」の言葉

吉田満さんの『戦艦大和ノ最期』について語るに当たり、前提として二、三、まず押さえておきたいことがあります。

一つは、昭和12年(1937)の日中戦争開戦から、昭和20年(1945)の太平洋戦争終結に至るまでで、もっとも多く戦場で亡くなったのはどの世代なのか、ということです。

詳しい統計はありません。私はいろんなかたちの取材で、多くの戦場体験者に話を聞いてきたのですが、大正11年(1922)生まれと大正12年(1923)生まれが戦死者のピークであろうと思います。とくに大正11年生まれが多い。

彼らは昭和17年(1942)、太平洋戦争が始まった直後に、20歳で兵隊検査を受けています。『戦艦大和ノ最期』の著者である吉田満さんは大正12年1月6日の生まれで、多くの大正11年生まれと同じ学年です。

この世代は、戦争で大勢亡くなっていると同時に、もっとも戦争の本質的なことを語っています。戦争末期に没した学徒兵の文章を集めた『きけ、わだつみの声』には、74人分が収録されていますが、そのうち大正11年、12年生まれのものが、半分ぐらいを占めるのではないかと思います。

『きけ、わだつみの声』に、上原良司という慶応大学経済学部の学生の遺稿があります。特攻で死ぬ彼は、出撃前日に書き残した所感のなかで「私は自由主義者である」と言っている。

また、枢軸体制のこのような国家が戦争で勝つことはありえない。残念だけど日本は負けると思う、と明言しています。

一人の自由主義者が、明日死んでいく。その後ろ姿は淋しいけれど、心中満足で一杯である、というようなことも言っている。もちろん、いろんな意味に解釈しないといけませんが。

あるいはフィリピンで亡くなった竹内浩三という詩人がいます。彼は大正10年生まれで、『戦死やあはれ』という詩を遺しています。

戦死やあはれ
兵隊の死ぬるやあはれ
とほい他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

この年代で亡くなった人たちが書き遺したものには、生者と死者の区別がない印象があります。生者は死者であり、死者は生者であり……。

上原良司は特攻隊で死んだ。竹内浩三もフィリピンで死んだ。誰々も輸送船が沈められて太平洋に眠っている。誰々の遺言はある、誰々の遺言はない……。

いま、ここで挙げたのは死者の遺した言葉ですが、同時に生者が引き継いだ言葉でもあるのです。生者の言葉と死者の言葉には、この年代に関してはほとんど壁がなく、回路ができていると思うのです。

私が最初に『戦艦大和ノ最期』を読んだのは高校時代です。こんなにリズムを持った文章で、壮大な叙事詩が歌いあげられていることに感じ入り、大正12年生まれの人が、歴史に位置づけられてしまった宿命を感じました。

 

戦争を知るということ

冒頭で申しあげた前提の二つ目は、戦争を知るとはどういうことか、もう一度考えるということです。

戦争とは政策の失敗だ、と私たちは簡単に言います。たしかに軍事や政治の指導者の失敗ではあるのですが、その時代に巡りあわされて、兵隊という立場に置かれてしまった人たちの声を汲み取る必要がある。

手紙などの“語り”を遺して死んだ人もいれば、語らずに、あるいは語れずに死んだ人も無数にいるわけです。戦争を知るということは、戦争のメカニズムを知るということだけではなく、戦争という時代に巡りあわせた人たちが発した言葉と、言葉を発せずに22歳や23歳で死んだ人たちの言葉を、汲み取る力があるかどうかだと、私は思います。

なぜ20歳そこそこの青年が、鉄砲を担いで中国に行って、あるいはニューギニアに行って、フィリピンに行って、戦争をしたのか。彼らは何を思っていたのか。彼らを戦場に行かせた指導者たちは、なにを要求したのか……。

メカニズムと感情、時代の空気をきちんと伝えないと、私たちはほんとうに戦争を語ったということにはならないと思うのです。

私は、日本だけではなくて、アメリカやイギリスやオランダや中国やソ連など、いろんな国の戦場体験者に話を聞いてきました。そういう体験を通して、戦争を語るということはどういうことなのか、私なりに理解したのです。

あたりまえの常識的な感覚で、昭和10年代の日本の戦争指導が誤りだったことを指摘します。三点あります。

一つ目、軍事が政治をコントロールしたということ。

第二次世界大戦時、そういう国は日本以外にどこにもなかった。ソ連スターリンやドイツのヒトラーは、ひどい指導をしました。ですが、軍事は政治がコントロールするというのが常識だった。

第一次世界大戦のヨーロッパでは、あらゆる新兵器が用いられ、1000万人以上の兵士が死んだ。軍人は放っておくと最後まで戦争をするから、政治家がそれをコントロールしなきゃいけない、というのが連合国、枢軸国側とも共通認識としてあったわけです。それが日本では逆転していた。軍事が政治をコントロールしたのです。

二つ目、日本は特攻や玉砕という、「十死零生」の作戦を用いました。

100人の兵隊がいれば100人みんな死ぬ。そういった作戦を遂行したのです。こんな作戦をおこなった国は、日本以外にどこにもありません。

これは20世紀の国家としては恥ずかしいことです。こういう戦争をおこなった責任というのは、政治や思想の問題ではなくて、文化への挑戦であるという実感を、私たちは持たなければいけないと思います。

三つ目は、国際条約を無視したことです。

昭和4年(1929)に、捕虜の待遇改善に関するジュネーブ条約が締結され、日本も署名をしました。しかし批准はしなかった。

昭和16年12月に太平洋戦争が始まり、アメリカは中立国のスイスを通じて、ジュネーブ条約の遵守について照会しました。

そのとき、日本の軍事指導者はどういう答えを返したか。

われわれの国はこの条約を守ることによって、なんのメリットもない。つまり日本兵は「戦陣訓」(昭和16年1月示達)にあるとおり、捕虜になる前に玉砕してしまうから、捕虜の待遇を改善されても、恩恵を受ける者はいない。しかし私たちは、アメリカ軍の捕虜は守ってあげよう、ジュネーブ条約を守ってあげようと、まさにとんちんかんな回答をします。

こういった国際条規の基本的な理解ができてなかったということは、恥ずべきことです。

この三点は、やはりきちんと押さておかなければなりません。

 

軍事指導者の人間観

戦争とは「人間に値段がつく」ことです。たとえば特攻隊で亡くなった兵士は、陸海軍合わせて3900人ぐらいいます。その7〜8割は学徒兵や少年飛行兵です。なぜ彼らが最前線に行ったのでしょうか。

私は昭和50年代に、軍事指導者を訪ね歩いて聞きました。「どうして学徒兵や少年兵が特攻隊で出撃したのか? 海軍兵学校出も陸軍士官学校出もいるじゃないか? 専門にパイロットの養成を受けたエリートがいるじゃないか?」と。

もちろん誰も答えません。しかしある“親切”な軍事指導者が、「どうして海兵出や陸士出が、そういう作戦に携わると思うか。国は彼らにいくら金をかけていると思うのか」と、答えてくれたのです。

私が「では、学徒兵や少年兵には、金をかけていないからいいのですか」と問いなおすと、「それはしかたないだろう」と言う。人間に値段がついて序列化される。イヤだとか悪いとかではなく、これが戦争の宿命なのです。

もう一例を挙げれば、昭和20年8月6日、広島に原爆が落とされました。翌日、広島近郊の旧制中学、高等女学校の学生は、全員広島に入って死体の処理をしなさいと言われた。当然、第二次被曝が起きます。

私は先ほどの軍事指導者に「広島からそう離れていない呉には、海軍兵学校の元気な学生が4000人もいたのに、なぜ彼らが広島に行かなかったのですか」と聞く。

すると彼は、「そりゃ君、彼らはエリートだよ。そんなことで殺すわけにはいかないだろう」と答えたのです。

私たちの国の戦争のなかに潜んでいる、そういった基本的な考えかたを、まずきちんと知る必要があります。

乗組員三千何百人がもつドラマ

これまで話してきたようなことを踏まえたうえで『戦艦大和ノ最期』を読むと、私がこれまで申しあげた問題にたいする答えが、ずいぶん書かれています。

もちろん吉田満さんは、答える意図で書いたのではなく、現実を書いているわけですが、書かれた現実は、すべて問題への答えになっています。

吉田さんは一人ひとりの学徒兵、海軍兵学校出の将校、下士官や水兵、いろんな人物像を書き残しています。それを私が言った図式にあてはめると、みごとに説明がつきます。

いくつかの感動的な話を、本書のなかで吉田さんは描写しています。たとえば14ページから16ページにかけて、中谷少尉の話が出てきます。彼は日系アメリカ人二世なのですが、ある夜、ハンモックで嗚咽している。吉田さんがどうしたのかと聞くと、一葉の紙片を差し出す。

中谷少尉は慶応大学留学中に、学徒兵として召集されるのですが、二人の弟はアメリカ軍に入って戦っている。

兄弟が敵味方に分かれて戦っている状況のなか、中谷少尉はアメリカにいる母親から、中立国のスイスを通じて、ようやく届いた手紙を持っている。

手紙には「お元気ですか 私たちも元気で過してゐます ただ職務にベストを尽して下さい そして、一しよに、平和の日を祈りませう」と、書かれてある。その万感籠められた、簡潔な手紙を読んで泣いているのです。そして吉田さんも「言葉モナク」ハンモックに上るのです。

吉田さんは、戦艦大和の乗組員三千何百人の、一つひとつのドラマを、可能な限り拾っている。そのドラマをトータルで俯瞰していくと、私がさっき言った問題意識に全部くくられていくと思います。

では、そういった話のなかに、何が見えるのでしょうか。

 

相容れない死生観

本書の一つの山場とも言える、海軍兵学校出身者と学徒兵の間で起きた、殴りあいに発展した激論。この議論は、46ページから48ページにかけて書かれています。

この議論の本質は、死ということにどんな理由、意味付けがあるのか、ということです。

学徒兵は、単に天皇陛下の命令で死んでいくという「神話」のなかには入りたくない。もっとなにか、自分たちには死んでいく「理由」や「大義」があると考える。そういうものをもっと知りたいし、もっと意味づけをしたいし、もっと考えたいと思う。

しかし軍事教育一本槍できた海軍兵学校出の士官たちは、そんな「理由」や「大義」は必要ないと考える。「国ノタメ、君ノタメニ死ヌ ソレデイイジャナイカ ソレ以上ニ何ガ必要ナノダ」、「天皇陛下万歳ト死ネテ、ソレデ嬉シクハナイノカ」と、反論する。

私はここに本質的な問題が表れていると思います。永久の問いかけが発せられていると言ってもいい。

戦前・戦中の海軍兵学校には、優秀でなければ入れません。しかし基本的に彼らの死生観は、天皇陛下の命令のもとで死んでいくということ以外にない。これが、日本の軍事学なのです。

しかし学徒兵たちは違う。天皇のために死ぬことは否定しないが、その他になにかが必要だと。

戦艦大和の乗組員以外の、学徒兵の遺文などからも推し量れば、彼らは死んでいくために、なにかもう一つ理由づけを必要としていた。たとえば母や家族を救うとか、あるいは抑圧されている東洋の人たちを救うとか、自分の生命が代置されるなにかが必要だと。その意味付けがほしいということですね。これが旧制中学→旧制高校高等専門学校)→大学へと進む一般の教育です。

同じ世代で、両者とも優秀なのでしょうが、けっして同質のかたちで、死というものを共有しているわけではない。だから、どちらが正しいか、議論が昂じて殴りあうのです。

合わせ鏡の向こう側

その場面を読み、私たちが図式化することは簡単です。「一般社会の知性と、軍隊という特殊社会の単純さとの対立からくる暴力」などと。

しかし、本質はそういう話ではないと思います。

たとえば吉田満さんが海軍兵学校に行っていたら、そちら側の論に立つはずです。帝国大学に行っていたから、こちら側の論に立つのです。立場の境目などというものは偶然です。だから彼らは殴りあうのですね。自分を見ているわけです。

そこを読みぬくと、この吉田さんの書いている「遂ニハ鉄拳ノ雨、乱闘ノ修羅場トナル」というのは、ある意味で殴りあいながら悲しい思いをしていることが分かります。自分を見ているのだとわかります。

戦場でもっとも愛するのは敵、とよく言われます。敵も自分と同じような立場で、同じような恐怖心を抱き、戦場に出てきて、そして撃ちあい殺しあうわけですね。

ですから本当は、敵味方で兵士の心は通じあっている。

しかし国家と国家が衝突したとき、彼らは命をお互いにぶつけあう体験をしなくてはならない。一方で、たとえば捕虜になった瞬間、彼らは親友のように語りあったというケースがいくつもあります。

ある状況のなかで自分はこちら側にいる。しかしそちら側にいる人間というものも自分なのだということを想像することができる。戦争というのはそういう深遠なものを背負っています。自分は相手のなかに自分を見、相手もまた自分のなかに相手を見ているのです。

戦場で戦っている兵士たちが、さまざまな相のなかに自分を幾重にも見るのだということが、『戦艦大和ノ最期』を読むとよくわかります。溺れる人がいる。船が沈められますからね。悲しそうな下士官の水兵の目がある。それも吉田さんなのですね。吉田さんはいろんなところに出てきて、見て書いているのです。

 

敗れたがゆえの立脚点とは

私たちの国は太平洋戦争でひどいことをしました。負けて、みじめな思いもしました。

しかしこのことは重要なことで、負けたがゆえに私たちの国の文化の総点検を、人生観も死生観も含めて問いなおしができたのです。

その問いなおしをするための教化本、教育本というのが、大正11年生まれ、大正12年生まれの将兵による戦争文学に多いのです。20代前半の清新な感覚で書かれた文章のなかに、多くの示唆が入っている。

吉田満さんの文章はその集積庫であり、最大のものが先に紹介した殴りあいの部分に前後した臼淵磐大尉の言葉です。

「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」

この言葉についてはいろんなところで、いろんなかたちの語られかたをしていますので、読んだ人はいろいろ思うこともあるでしょう。

しかし、もし日本が戦争に勝っていたら、こういう言葉は遺りません。こんなことを書いたら、袋叩きに遭います。戦争に勝つということは、そういうことなのです。

私たちは戦争に負けることによって、大きな文化の再点検、この国の歴史の総ざらい、そういうことができたのです。総点検をできるかどうかは、戦争文学を読む私たちの姿勢に委ねられています。

私は、『戦艦大和ノ最期』を読むといまでも涙が出ます。特攻隊で逝った人たちの文章を読んでもそうです。しかし、涙で終わらせていいのかということですね。

彼らは一身を賭しました。戦争のための要員として生まれてきたのではないかと言いたくなるくらい、戦争に振りまわされて生き、死んでいった人たちです。

日本が敗戦国になったからこそ、彼らは貴重な証言を後世に遺した。

そのことを、『戦艦大和ノ最期』をはじめとする戦争文学から読み取れるかどうかというのは、現代に生きるわれわれ自身に課せられた分析や共感の能力と、歴史的な主観の問題だと思います。

 
 
*本記事は2016年8月1日に八重洲ブックセンター本店にておこなわれたトークショー「谺し合う、生者と死者の声──いま『戦艦大和ノ最期』の“言霊”を読み解く」の一部を編集したものです。
 
 
保阪正康(ほさか・まさやす)ノンフィクション作家
1939(昭和14)年、札幌市生まれ。同志社大学文学部社会学科卒業。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。昭和史の実証的研究のために、これまで延べ4000人に聞き書き調査を行い、独自の執筆活動を続けている。2004年、個人誌『昭和史講座』刊行の功績で第25回菊池寛賞受賞。主な著書に、『東條英機天皇の時代』(ちくま文庫)、『瀬島龍三-参謀の昭和史』(文春文庫)、『昭和史七つの謎』(講談社文庫)、『昭和陸軍の研究』(上下、朝日文庫)、『あの戦争は何だったのか』(新潮選書)などがある。近刊は『歴史なき「歴史観」』(河出書房新社)。