読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

茅ちゃん日記

世の中のこと、思うことをつづります

女性「9条の会」ニュース36 号 2016 年2 月号

ここ数年、わたしは「女の平和」の集会に参加してきた

今年も赤い傘を3つ購入して

(一緒に参加する人にもあげようと)

参加をしようと思っている

そんなときにこのHPを見て

評論家の吉武 輝子さんがすでに故人になられていることにショック!

若い頃、いろいろお世話になった

わたしの憧れの人だった

弁護士の中島 通子さんも・・・えっ?

そんな・・・

女優の渡辺 さんの名前をここに見つけて

心をなぐさめる

平和で、個人の自由が保障される国だから

憲法表現の自由が保障されているから

わたしは今日も自由でしあわせだ

このHPを記録として残したい!

 

 

 

 

 

女性「9条の会」ニュース36 号 2016 年2 月号

 

  

自衛隊憲法違反だから改憲を!」と言う安倍首相  
                                          
                                               音楽評論・作詞  湯川れい子 ( 女性「九条の会」呼びかけ人)

遂に、安倍晋三首相は二〇一六年二月三日の衆院予算委員会で、戦力の不保持を規定した憲法九条に言及して、改憲の必要性を訴えました。
 「憲法学者の七割が九条の一項、二項を読む中で、自衛隊の存在自体に憲法違反の恐れがあると判断している」から、「自衛隊に疑いを持っている状況をなくすべきだという考え方」から、「現実に合わなくなっている九条二項をこのままにしておくことこそが、立憲主義の空洞化だ」と言う訳です。
 憲法学者二〇九人のうちの一二二人が自衛隊憲法違反にあたるかという質問に対して、五〇人が「憲法違反にあたる」と答え、「違反の可能性がある」と二七人が答えたという朝日新聞のアンケートは、確かに全体の六三%で、質問者の稲田朋美政調会長と安倍首相が、この数字を指して七割と言ったのだろうと思われますが、私などを含めて、もともとは改憲論者である慶応大学名誉教授の小林節先生や樋口陽一東大名誉教授など、憲法学者の九割以上、九八%の人が日本の国家的な立憲民主々義の危機だと訴えて立ち上がったのは、集団的自衛権などに関する憲法解釈による安全保障関連法の成立であって、自衛隊の存在ではありません。
 今度は、「国民の生命と財産を守る任務を全うするため」に九条の二項を壊して「陸海空軍その他の戦力を保持し、国の交戦権を認める」と言う方向に、一挙に突き進もうというのです。
 日本の平和憲法が現実に合わないと、安倍さんに勝手に決めつけて欲しくありません。中国などの近隣諸国が殺気立って覇権を争って危険な時ほど、国際社会に対して日本は平和と中立を訴え、武器を捨てて、人類の理念としての憲法九条を手に、世界の他のどの国にも出来ない環境に関する知識や技術、食の安全、キメ細やかな先端医療のノウハウなどで、世界をリードしていけば良いではありませんか。 それでこそ初めて、一億総活躍社会、女性たちが輝ける時代の到来になるはずです。
 私たち女性は、もっともっとお役に立てます。   

                                        女性「九条の会」学習会         2016年1月23日 於 婦選会館

   なぜ「女の平和」なのか 

            講師 横湯園子さん      
 

はじめに─原点となった二つの記憶

 私は臨床心理士として仕事をつづけてきました。その私がなぜ「女の平和」を呼びかけたのかですが、原点になっていると思うことが二つあります。
 一つは、1965年に全国で初めてできた、今で言う不登校の子どもたち(当時は学校恐怖症、登校拒否と呼ばれていた)の教育を保障する学級が国立国府台病院児童精神科病棟内にできました。20代後半の私は治療的教育の場の教師になりたくて大騒ぎをして教師になりました。その校舎の前身は、「戦争神経症」の将校病棟でした。将校でも神経症を発症していたという事実を知りました。
 文部省の実験学校は、3年後に「症状がとれれば普通の子どもたちである」と報告しますが、若かった私は関わり方に悩んでいました。悩んだ末に成人病棟の精神科医をたずねました。元軍医だったと思われますが「戦争がなかったら戦争神経症がないように、社会的現象であるという認識が大切」「神経症、トラコーマ、結核は戦争前夜現象であるということを認識しなさい」と言われたことが心に残っています。  
 二つ目は私の戦争体験です。私の父は治安維持法で幾度か投獄され、仮釈放中に結核で死にました。29歳という若過ぎる死でした。私が1歳半の時です。ところで、母は父の身元引受け人になるために獄中結婚宣言を新聞発表し一族から勘当。父の死後は婚家を出ざるを得ず、思想犯の未亡人として辛酸をなめ終戦を迎えます。 
 その母も結婚前に逮捕、短期間で釈放されるが拷問を受けています。84歳で死の直前に見せた点滴の針に対する母の激しい抵抗と体力消耗は、拷問時のフラッシュバックだったのだと思いました。4日目に亡くなりますが、母のこのような死は拷問時にインプットされていたのだと思いました。
 戦争体験のフラッシュバックについてですが、3・11の後、私はカウンセラーとして被災地に何度も足を運びましたが、被災地の無残な姿が1945年の沼津大空襲の記憶につながるのです。その一つは、グラマン機に狙われたときのことです。弟を背負った母はとっさに「逃げて!」と叫んで私を小川に突き落とし、自分は麦畑にころがっていきましたが、そのときの笑いながら銃撃をする米兵の笑っている目がよみがえりました。
 もう一つは、まだ水の引いていない仙台市若林区で、倒壊した家々の中を数珠を持って歩いてくる少年に出合ったときに、沼津大空襲の記憶がよみがえりました。私たちは火の中を逃げて助かりましたが、一夜明けた千本松原にはたくさんの遺体が安置されていました。一人の少年がお母さんを探していました。すると近くのおじさんが、「この人がお母さんだと思うよ」と言って、トタンをめくり上げました。少年はお母さんを確かめて、松原を出て行きました。それを若林区で思い出したのです。私はその時娘夫婦といっしょに行っていたのですが、嗚咽がこみ上げて困りました。
 他にも、私たちのいた防空壕に爆弾が落ち、吹き飛ばされて松の幹に張り付いた肉片や肉の焦げる臭いなど、今でも私は焼いた皮付きの魚やレアなステーキは食べられません。
 

■心の奥深いところからなり出した警鐘


 いつの間にか戦争への道へと動き出していると思い始めたのは「秘密保護法」制定の時でした。「秘密」と聞いただけで治安維持法との関係で反応するのです。「秘密保護法」に関する講演やシンポジウムはよく聞きに行きました。 
 その中の一つ、日弁連主催の国際シンポジウムで、アメリカの安全保障の専門家であるモートン・ハルペリン氏は、「秘密保護法」を「国際法」との関係から批判されました。それを聞いて私はいざとなったら国際法との関係で保護されると思ってほっとしました。「ある」と「ない」では大きなちがいです。そして元毎日新聞社政治記者の※西山さんの「すでにメディアは批判力を失っている。負けるかどうかは市民運動にかかっている」との言葉に、私は「覚悟」の勇気をもらいました。
西山太吉氏─1971年沖縄返還時、毎日新聞政治部記者、日米間の外務省秘密文書を入手、社会党国会議員に提供、国会で問題にさせたが、入手経路を外務省の女性事務官を籠絡したと暴かれ世間の非難を浴び、機密漏えいで有罪判決。秘密文書問題はうやむやになった。

■押しつけられた「再軍備
 毎日アメリカ軍が日本の基地から出撃する。兵站、つまり食糧や軍備まで全部日本から調達される。これで日本の大企業が朝鮮戦争特需で復活するが、日本列島全体がアメリカ
の軍事基地化され、野戦病院化することになった。そして講和条約と一体なので、沖縄、小笠原、奄美諸島は日本から切り離されてしまう。九条があるにもかかわらず、アメリカから日本に対する再軍備への要求が入る。
 日米安保条約の発効は1952年4月28日。発効すると再軍備をしなければならない。1952年に保安隊と保安庁が結成され、二年後の54年に陸・海・空を持つ自衛隊防衛庁が創設された。安倍政権が昨年の7月1日に閣議決定集団的自衛権の行使を容認したのは、七月一日が自衛隊が創設された日だからだ。「自衛隊は陸・海・空軍ではありません。最低限度の実力です」と吉田茂は説明した。そして「日本領海内で問題が起きたときに限り出撃できる」と国会答弁をした。

 

■なぜ私は「女の平和」を呼びかけたのか

そうこうしているうちに「集団的自衛権」の閣議決定が行われます。戦争体験を思い出し、戦争反対と治安維持法のような弾圧はセットで来るのだと、眠れない日々が続きました。ある明け方のこと、半分覚醒状態だったのでしょうか。「女の平和」
という銀色の文字が浮かび上がってきました。私はすぐに立ち上がって、パソコンで「女の平和」を検索しま
した。すると二つの情報がありました。一つはギリシャ時代の「アリストファレスの女の平和」で、アテネとスパルタの戦争を終わらせたいと、女たちがセックスストライキをやれば男たちは参るだろうと考え、スパルタの女性たちに呼びかけたという話ですがこれはまねできない。
 もう一つにアイスランドの「女の平和」がありました。1970年に、古い因習を打ち破る運動が始まり、75年の国際婦人年の年にアイスランドの女性の90%がレッドストッキングを履いて家事を放棄して立ち上がり、大統領府の広場を埋め尽くします。病人の介護もレッドストッキングを履いて行なったそうです。80年には初の女性大統領が誕生。ヴィグディス大統領は86年にはレーガンゴルバチョフに直接和平会談を呼びかけます。冷戦の終わりのはじまりになったということを知りました。
 私は「これだ!」と思いました。同じ考え方の女性だけに呼びかけても広がらないので、私とはやや考え方が違っても平和をねがっている弁護士や他分野の人に連絡しました。即、弁護士会館のロビーで会って話
し合ったのが、「女の平和」の始まりでした。いろいろな組織や団体があるけれども、それだけではダメであり、ひとり一人が戦争に反対するという気持ちを持たなければ食い止められないだろう。アイスランドのやり方で行こうということになって、呼びかけを始めます。
 初めは11月にレッドストッキングをやるつもりでした。ある弁護士は60足も赤いストッキングを買って配っていました。ところが国会が解散してしまったので、集会は真冬になってしまいました。レッドストッキングでは外からは見えません。それで赤なら何でもいいから身につけようということで、赤いファッションにしました。まず記者会見で赤をイメージ付けようと、それぞれが工夫しました。私は赤いセーターとコサージュ、それから赤いベレー帽を買いました。長身の雨宮処凛さんは赤いワンピース、上原公子さんは赤い着物姿で。詩人の浅見洋子さんは赤いショール。坂本洋子さん、大学人の太田美和さん、辛さんはマニキュアまでも赤の色、司会の杉浦ひとみ弁護士も赤いスーツ。藤原真由美弁護士は髪に大きな赤いリボン。裏方に徹した米倉洋子弁護士も赤いショルダーバッグを。赤は身につけたことはないという人たちもそうやって記者会見に臨みました。
 私たちの戦いはファッションのイメージ化から始まりました。
 1・17の時は湯川れい子さんが赤のロングコートでスピーチに。またある方は黒い帽子に赤い花をたくさんつけて中世の貴族のようでしたが100円ショップで購入されたということでした。「これは何十年も前のものを引っ張り出したものです」とか「クリスマスイベント用に買ったものです」とか、当日の挨拶はファッションから始まっていました。こうして全国に赤いファッションが広まっていきました。
 埼玉の知人からレッドアクションを9回やったというメールがありました。長崎の「女の平和in長崎」は4回、仙台、函館も何回か。呼び名も様々で、例えば横須賀は「女の平和」レッドストッキング、仙台はピースアクション、青森は「女の平和行動」。各地の母親大会での講演テーマが「女の平和」ということが多く、北海道は集会後に1000名以上でデモ行進を。その他に船橋、杉並、上尾、入間も。全国各地の報道もあります。年賀状を含めて各地から様子が届いています。「女の平和」の事務局はまだ強力な体制ができていないのですが、もう一回はやりたいねと今、話し合っています。

 

 ■そして今


 「戦争法」は採択されてしまいました。これをどうやって廃止して憲法を守っていくかという戦いになっています。私たちは今、正念場にいると思います。私は運動家ではなく心理臨床家ですから、自分の専門性の中で感じていることをどう訴えて行くかを大切にしようと考えています。
 すると、20代の時に聞いた元軍医の言葉が強く思い出されるのです。今、いじめ暴力は蔓延して一つのいじめ文化になっていると思います。その中で多くの子どもが不登校になり、引きこもりに入っていく。私には10年、20年と家の中に引きこもっている青年たちが悪いのだと思えません。青年たちが傷つけられ人間不信に陥っているその大本は日本社会のあり方であり、余裕を失っていった学校教育であるのです。教師は長時間労働と多忙化のもとで大変な苦労をしています。考える余裕さえない。
 私は足立区のいじめ自殺の調査委委員長をしていました。いじめ自殺した少年の親友が私たちのヒヤリングに応じてくれ、「先生は僕たちの中に降りてきてほしい」「先生と一緒にいたい」と言いました。先生たちは、教育委員会から言われていますからと本音を言ってくれません。
 そこで関係学年の教師に「調査委員会の委員4名の人間しかこのアンケートは読みません。アンケートに応じてください」と書いて郵送しました。すると応じてくださいました。その中で何人かの先生が「私たちは生徒と一緒にいたいが、その時間がありません」と書いていました。子どもたちと一緒にいたいという思いは教師になったときから変わっていないのです。その現実を何とかしてほしいと願っているのです。生徒と教師の願いをどうすれば、より現実化できるのかを答申の中心にしました。このような作業を通じて不登校やいじめ、自殺、引きこもりは社会のあり方の中で起きているのだということを改めて感じました。
 貧困の問題も深刻です。私はこの
間、八王子の市長選で候補者にメッセージを送りました。私の思いをメッセージに託しました。「保険証がなく病院にも行けない家庭が増えている。電車賃がなくてカウンセリングに行けないからキャンセルする高校生や、電車賃を払うためにお昼を抜いてきたと言う引きこもりの大学生など、一見中流家庭に見えるそういう家庭も貧困化が広がっています。日曜日に、コンビニの前を500円玉を持ってうろついている保育園児たちを教会のシスターが教会でご飯を食べさせているという話もあります。太平洋戦争が終わろうとする頃の餓えと同じような状態が、すでに始まっているのではないか。過労死過労自殺、大人のノイローゼも少なくない」「まさに日本は戦争前夜になっているのだ」という危機感がつのっていました。この時も「戦争神経症に苦しむ将校たちが収容されていた」国府台病院の将校病棟だった校舎を思い出していました。
 市長になってそういう子どもたちや大人を救ってほしいという思い、憲法市長になってほしいと願いながらメッセージを書きました。
  

■封印される戦争神経症

  8月18日に、朝日新聞が、元厚生省にいらした目黒さんという精神科医が書かれた(戦後70年)「封印された戦争神経症」という記事を1面に掲載していました。
 日中戦争の開戦のころからノイローゼになった軍人、兵隊たちがたくさん出てきたけれども、日本人の精神力を強調する軍は「戦争神経症」と欧米で呼ばれている病は1人もかかっていないと誇っていたこと。現実には対応を迫られ、国府台陸軍病院をその拠点としたこと。戦争が終わったときに、国府台病院には8000冊もの病床日誌があったこと。敗戦後、軍は資料の焼却を命じたが、病院長の故•諏訪敬三郎先生がひそかに倉庫に隠したのだそうです。 
 私は国府台病院にいる時にカルテがあることを知っていたので、読ませてほしいと頼んだのですが、顔色を変えてそれは見せられないと断られました。封印の事実を知らなかったから言ってしまったのですが、8000冊もの病床記録は倉庫で守り通したのでした。国立病院の統廃合時に、そのカルテつまり病床日誌を始末するように、つまり廃棄せよとの指示が出たそうですが、その後のことを漏れ聞いたことがありますが定かではありません。
 ここで私がお話ししたかったことは、戦争によって、将校と言えども、恐怖のもとで神経を病み、気が狂っていき後々まで苦しむということ、その事実が実質的には隠されていたということ、同時に、そのカルテつまり病床日誌をみつけた廽先生は生存している元患者を捜し出し、郵送と面談で調査をしますが、回答のあった104人のうち25%が治っていないと答え、治ったと言う人も神経症的傾向が続いていたそうです。
 フラッシュバックというのは恐怖体験、兵隊の場合は殺し殺される体験ですし、殺してしまった後それを見て泣き崩れているおばあさんを見たときに自分の母親を思い出し、その途端に意識を失ったというような兵士など、戦争神経症になる人たちの状況は様々です。初年兵いじめのひどいリンチをきっかけに神経症になる兵士もいるでしょうし、戦争が終わって何十年経っても、大きな音が銃声に聞こえ、戦場の光景がよみがえる。悪夢にうなされ悲鳴をあげるなど、戦争神経症の症状例をあげています。
 精神医学事典の「戦闘神経症」によりますと国府台陸軍病院には2000人余の兵士が入院治療を受けていますが、第二次世界大戦時、アメリカでは100万件あったそうです。つまり欧米の方が日本の軍隊よりも厳しくなくリンチも少ないにもかかわらず100万件(人数ではなく治療を受けた回数)もあります。 
 日本がアメリカと一緒に戦争をし、アメリカの肩代わりをしていったらどうなるかは推して知るべしだと思います。
 欧米の少年文庫や小説を読んでいますと戦争神経症のことは当たり前に出てきますが、日本の小説には出てきていないというか稀にあるという程度です。日本人は本当の意味の戦争の姿を隠されてしまっているということです。が。最後まで会えなかった人もあり、参加11人は確認できたのですが、もっと多くの方がいらしたと思います。

■戦争は弾圧と共にやってくる

 小林多喜二だけでなく、日常の中で、弾圧を受けた人たちはたくさんいらっしゃるのです。また、途中で離脱した人も多いはずです。実際には自分は逮捕されなかったけれども親友がそうなったことでずっと苦しんでいたという人も多いことでしょう。
 私の書斎はみなさんが送って下さった赤い物で溢れているのです。それを見ていると「赤」というだけで逮捕される時代がきたらどうしょうと思ったりします。言論自由、生きる自由をうばわれたくはありません。心の安心、命の安全を、です。

■心の傷を超えて故郷に帰る

 私は静岡生まれなのですが、大学を卒業してからは法事以外には2回か3回しか帰っていません。非国民の子どもとして見られてきた思い出があるのでしょう。気が重いのです。同級会も70歳の手前でそろそろみんなも亡くなり始めるからそろそろ行かなくてはと思って行ったのが最初でした。ところが今回3月に国際婦人デーの関係で静岡県から声がかかりました。初めて心底から行こうと思いました。講演のチラシ用に写真を送ったのですが、若かった私の母を知っていた人が、私が母に似ているので母について調べてみたというメールが届きました。それを見たときにやっぱり行こうと思いました。本当に初めて心から帰ってみたいと思いました。それほど戦争とか、弾圧とかいうものは70年経っても消えない傷なのです。改めて、戦争の傷を私自身が感じているところです。

 

■2のX乗運動

 2000万署名と言われていますが、それを大前提とした上で、署名だけでいいのだろうかと思っていまして、「1人は2人に、2人は4人に対話で伝えよう戦争法反対」をしたいと思っています。つまり署名をしたら終わりというのではなく、なぜ戦争法に反対しなければならないかを聞き考えた人が2人の人と対話する。その人も2人の人と対話し署名をする。署名はできないけれども2人の人に話すことはできるという人もあるはずです。そのようにして2のX乗の考え方で例えば22回やると800万人を超えるんです。「すごい!」と思うのですが、とにかく正念場の夏まで、やれることはやっていったらどうでしょうか。そう思っています。         完

 

 講演会の感想より

◆一年前の女の平和ヒューマンチェーン、そしてその後のたたかいを、まざまざ思い出しました。戦争神経症のお話は、衝撃的でした。自・公・おおさか維新が国会の3分の2を占めようという動きを絶対許しません。頑張りたいと思います。

◆横湯さんのすさまじい生い立ちにおどろきました。筆舌につくしがたい経験の中で、強く、しなやかに、輝くように運動をリードされていらっしゃることに敬意を表します。戦争神経症の人が、これからの日本に世界中に生まれないように力を合わせたいです。人間の尊厳がしっかり守られる社会を。

◆これから若い方々に対する教育が心配です。戦争の「悪」を理解し伝えるむずかしさが、日々多く感じられます。

◆何かしなくては時代の流れを止めることはできないとよくわかりました。先生ご自身のつらい経験をお書きになったり、お話になるのは大変だったと想像します。身を切るようなつらさがおありでしょう。お身体に気を付けてお元気でご活動することをお祈りいたします。

◆貧困の親(特に母)が育てる子どもたちの貧困は目に余るものがありますね。平和で子どもたちの瞳が輝くようにと、願うばかりです。

◆私が平和と、子どもたちの運動に関わるようになった原点は、やはり、朝鮮戦争の後に、多摩川の土手にずらっと並んでいた朝鮮人部落の子どもたちが、食べ物やお金を「ちょうだい」と毎日のようにやってきたとき、母が「日本の国を操った政治家や軍部が悪いことをしたから」と一〇円玉を握らせていた様子を覚えています。そして母の、「こうやってお金やものをめぐむようなことはしてはいけない、政治を変えないと」と言っていた言葉が、脳裡に焼き付いていて、私の平和を求める原点になっていたのだと改めて思いました。個人が自ら意義を胸に落とす行動の大事さを感じております。

 

カンパ袋に添えてくださった言葉

◆老化現象が進行中、まもなく八三才、強制疎開、縁故疎開学童疎開を経験、八人家族でしたが絆がなくなり、学童疎開から帰宅した三月一〇日の空襲で級友も亡くなり、小学校に避難した級友は高温で焼死。炭化ゴミとして軍隊のトラックで隅田川畔に埋められました。戦争をしてはなりません。一日も早くアベ内閣を倒したい。 S・H

◆浜さんの講演記録読みました。実に明確なことばで示唆に富んだお話であったのですね。勇気がわきました。今私は高齢の母のことであれこれ用事がありデモにも集会にも思うように参加できません。女性特有の人生上の出来事なのですが…、他でがんばります。僅かなカンパで恐縮です。         練馬区在住 N・F

 

 

女性「九条の会」呼びかけ人からのメッセージ

池田 香代子(翻訳家)
ひとつのいのちを大切にするわたしたちの思いがつみ重なって、九条。

内海 愛子(恵泉女学園名誉教授)
憲法は日本人だけでなくアジアの人々の犠牲の上に手にしたものです。この精神をアジアの人に返していくのが、私たちの任務だと思っています。

江尻 美穂子(元日本YWCA理事長 )
日本や世界にどのような変化があっても、憲法九条を文字通り守ることこそが世界平和の基礎であることを確信し、連帯の輪を広げたいと思います。
大原 穣子(方言指導)
九条は戦争体験のある私の思いそのもの。各地のおくにことばで語っていますがふるさとを大事にするためにも、平和が大切です。
小山内 美江子(脚本家)
戦前に逆戻りイヤです。1946年11月の新憲法発布の日の安心感を忘れることはできません。

北沢 洋子(国際問題評論家)
今日、国際社会は紛争や“テロ”を軍事力で封じ込めようとするのではなく、その根源である貧困、人権侵害、環境破壊の根絶に取り組むというのが主流になっています。これは日本の憲法の精神と同じです。私たちはこの憲法を誇りにしましょう。

小林 カツ代(故人・料理研究家)
たくさんの同じ思いの会があります。みんなで手をつないで大きな力にする呼びかけをしてください。

坂本 福子(故人・弁護士)
働く女性の権利にかかわりながら、平和な社会の中でこそ、人間が平等に生きていけるということをしみじみ感じています。平和な社会の中で平等に生きる、そのためにも憲法を大切にしていきたいと思います。
瀬戸内 寂聴(作家)
戦後65年もの間、私たちが平和な日常を守り通せたのは、憲法九条のおかげです。その平穏に狎(な)れすぎて、私たちは九条の力を忘れがちです。武器を捨てて、世界の平和につながる意味の重さに、今こそ改めて九条の力を見直しましょう。
鶴見 和子(故人・上智大学名誉教授)
戦争は最悪の公害です。地球破壊です。子どもたちが、そしてこれから生まれてくる生命が、安全に、そしてすこやかに生きていけるように、九条を守り、ひろめましょう。
中島 通子(故人・弁護士)
暴力は暴力を生み出します。暴力の連鎖を絶つためには、一切の戦力の放棄を誓った日本の憲法九条を世界に広げる以外に方法はありません。
その日本で九条を守り抜かなければ、世界に広げることもできません。
羽田 澄子( 記録映画作家)
人間は政治的対立を戦争で解決してきました。でもそれが近代科学の進歩とともに、悲惨な結果を生んでいます。誰もが平和な世界を望んでいることを思うと、憲法九条は人類が理想とする憲法です。絶対に守らなくてはならないと思います。
本尾 良(市民運動家
1999年のハーグアピールにもあるように、9条は世界の理想であり、戦争参加へと9条を変えるのは、平和を愛する諸国民の公正と真義を裏切ることとなります。私たちはいま、未来を生きる人々の運命を決めさせられようとしています。はっきりと自分の意志を顕して連帯し、平和憲法を明日につなげましょう。

湯川 れい子(音楽評論家・作詞)
九条という「タガ」が外れたら、軍隊ができる。アメリカからはどんどん武器を売りつけられる。警戒された隣国からは安易に攻撃を受けやすくなる。 一触交戦!徴兵が始まる。核兵器が使われる。嫌です。 絶対に!!
吉武 輝子(故人・評論家)
9条と24条は表裏一体のものとして運動をしてきました。全力をあげて九条を次の世代に手渡したい。(記者会見)
渡辺 えり(制作・演出・女優)
憲法九条の不戦の誓いは、私たちの先達たちの、ものすごい犠牲のもとに手に入れたものだと思います。私たちも平和だから演劇ができる。人を笑わせるのが大好きで、みんなを笑わせたくて演劇をやっています。だから日本を再び戦争のできる国にしないために、憲法九条は絶対に守らなくてはいけない。
       (「全国革新懇ニュース」264号02年11月15日)