茅ちゃん日記

世の中のこと、思うことをつづります

空席通信より

戦争と写真 6

  靖国神社の境内に展示された「本州を空襲逃走中我陸軍部隊に収容せられし米軍飛行機中の一部の残骸」(前出)の写真を念頭に、つぎの記事を読んで欲しい。1942年4月18日の「朝日新聞・夕刊」である。

 けふ帝都に敵機来襲/9機を撃墜、わが損害軽微 東部軍司令部発表(18日午後2時)
 午後零時30分ごろ敵機数方向より京浜地方に来襲せるも、我が空地両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり。現在までに判明せる敵機撃墜数は9機にして我が方の損害軽微なる模様、皇室は御安泰に亙らせらる。

 この新聞発表記事を読んだ国民が靖国境内の展示板の「収容せられし」を「撃墜数は9機」に結びつけて、目前の敵機の残骸を見つめたこと、また地方の人は、その写真を眺めたこと。これらのことは容易に理解出来よう。皇室も安泰であり被害も軽微だった、という報道はこうして真実らしく国民の中に定着する。これはメディア写真と文字が連携して真実らしく化身する好例である。いわゆるバーチャルファクトである。現実は、あわてた当局が国民の不安を解消するために「空襲ニ伴ウ言論ノ指導取締」という極秘電話通牒(昭和17年4月19日・内務省警保局保安課長・『日の丸は見ていた』参照)によって素早く報道を規制して被害が軽微であったと虚偽の報道をしていたのである。ここで大切なことは、被害の軽重ではなく、なすことなく本土が空襲されたという事実を直視し空襲に対する防衛策を早急に講じることだった。しかし「損害軽微」を信じ戦勝気分に浮かれた民衆は何もしなかった。それを良いことに当局も無策であった。海軍は泥縄式にミッドウェー海戦を実施したが主力空母4隻を失う敗北に終わり以後敗戦まで制海権をうしなったことは、後日の史実に見るとおりである。「皇室は御安泰に亙らせらる」ととってつけたような唐突の文章の背景を国民はどのように読んだのだろうか。
 戦後、この本土初空襲についての本などで、撃墜したのは9機でなく「空気」だったと民衆は陰口した、といった文を見るが、相互監視の当時の社会に、そのような事実が実際に存在したのだろうか。良くできたフィクションだ。にわかには信じられない。民衆は支那大陸で収容した(捕獲ではない)敵機を当局が画策したように本土で撃墜したものと信じたのだろう、とわたしは思う。残念だが、当時、その記事を目にしていたわたしが、どう思ったか、周囲の大人たちがどう受け止めていたか、全く記憶がない。
 本土空襲に成功した16機のノースアメリカンB25は支那大陸の上空に達し、4機が灯火管制下の真っ暗な支那麗水飛行場に盲目着陸し、その時3名が死亡。9機は燃料切れで落下傘による脱出と不時着水。1機はソ連基地に不時着、残る2機が日本占領地域に不時着陸。乗員二名が、その際に死亡、かろうじて脱出した8名が日本軍に捕らえられた。1機に5名の兵士が乗務していたから、67名がアメリカに凱旋したのであった。8名の捕虜は3名が死刑、残りの飛行士は終身刑で、その中の1名は獄死した。このあたりの消息は『極東国際軍事裁判速記録』の1947年1月6,7日の法廷記録を参照するといい。当時ドイツ文学者高橋健二大政翼賛会文化部長・文化功労者芸術院会員・ペンクラブ会長)が捕虜を死刑にせよと高言したことを付言しておこう。
 この本土初空襲の被害は防衛庁戦史室の記録に寄れば「死者45名、負傷者約400名、全焼家屋160戸、半焼家屋129戸、攻撃を受けた箇所数十カ所」であった。ヒロシマや長崎の原爆被害と比較すれば、確かに軽微かも知れないが、「被害」の軽重は、それを語る者によって天地の開きがあることを知っていなければならない。45名の死者に対して軽微などと言えるだろうか。
 この空襲で死亡した旧制早稲田中学4年生小島茂の慰霊碑「祈りの碑」が早稲田中・高校の校庭の片隅にある。1983年に、同級生だった佐竹伊助(芸術家)が制作したブロンズ像だ。このあたりの詳細は『日の丸は見ていた』を参照されたい。

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 この初空襲の写真は、当局の取り締まりによって、地域を特定できない防火活動の写真が公開されただけだった。情報局発行の『写真週報』(218号)に「敵の空襲企図全く失敗に帰す」の記事があり、「空襲何ぞ恐るべき……」のキャプションで8×6センチほどのちいさな写真がある。ごらんのように不鮮明だが、防火活動をしている学生は早稲田大学の学生のようだ。
 この記事がふるっている。「4月18日午後敵機は突如わが本土上空に現れ、小癪にも京浜地方、名古屋、神戸、和歌山等に銃爆撃を加えた。大東亜戦争が始まってから最初の敵機来襲である。われわれは近代戦の常識としてわが本土に敵機の来襲あることは開戦と同時に予期していたところである。12月8日あの宣戦の大詔を拝した時、既にわれわれは第一線の将兵と同様に一死奉公決死の気持をもって国土を敵の空襲から断じて護ろうと心の準備は成っていた。果たせるかな、今度の初空襲に直面して、訓練に訓練を積んで待つあるを恃んでいたわれわれはその実力を遺憾なく発揮した。そして敵の爆撃下に敢然と消火に努めたわれわれは『銃後も戦場』『われわれの一人一人が国土防衛の戦士』であることを身をもって切実に感じたのである」。
 1953年3月、東京都が発行した『東京戦災史』によれば、「空襲警報発令が12時25分、空襲が12時10分、空襲警報解除が16時25分」とある。空襲があってから警報が発令したことを明らかにしている。来襲敵機はノースアメリカンB25で6機、高度600メートルの低空で分散、単機攻撃で爆弾(250トンクラス)6発、焼夷弾452発を投下した。葛飾区では機銃掃射により小学生が死亡しているが、記録されていない。焼失地域は荒川区尾久町9?2795付近、王子区稲付町1?293、小石川区関口水道町の一部、牛込区早稲田鶴巻町馬場下町。「火災発生及び延焼状況」によれば、南方より6機編隊で来襲した敵機は、それぞれ目的地域に分散して単機攻撃になり、超低空で攻撃、都民は初空襲に虚をつかれ防御に狼狽したのであった。「焼失程度61棟、1227世帯、3520坪」という数字は、当時(1953年)としては集められる最大の数字であったのだろう。
 中学生小島茂のほかに、もう一人、前記のように「昭和ヒトケタ」世代を呪縛した小学生の犠牲者がいたが既著で触れたから割愛する。石出巳之助の墓標にまつわる話だ。

 林芙美子ら女流文士が海軍兵学校を見聞したことに触れたが、戦時下の彼女について、つぎのような発言があるから紹介しておこう。
 タウン誌として知られる『かまくら春秋』の457号(08年5月)に収録されている太宰治の娘・太田治子の発言である。
 同誌の発行人伊藤玄二郎との対談「太宰治への道」で彼女は父の短編「12月8日」をめぐって作家と戦争のことを語るが、その中で「林さんは戦争とのかかわりでも割を食った作家といえます。戦中、林さんは従軍作家として、日中戦争では真っ先に漢口に行きました。高揚した気持ちがあったからだと思うのですが、その後、出稼ぎにきている女性や満州の冬の凍える大地でたいへんな思いをしている少年兵を見てしまってからは、12月8日も沈黙しています。一方、もっと猛々しい文章を書いた吉屋信子さんや、他の作家は戦後に特にお咎めを受けなかったのに、林さんは昭和25年に亡くなってしまったせいか、今も戦争協力者の作家として名を挙げられるのは、納得いかないとずっと思っていた」と語っている。
 12月8日に芙美子が沈黙していたとは、太田の事実誤認だが、ここでは触れない。  太宰に好意を持っていた林芙美子は、彼の死後、生まれたての太田治子を養女に迎えようとしたという。治子の母親(「斜陽」のモデル)が断ると未婚の母が世の中を渡っていくのは大変なこと、母子ともに面倒みるからいらっしゃい、と二人は芙美子に言われたそうだ。
 そういう関係の人の発言だから、額面通りに受け取れないが、戦時下の芙美子の言動を擁護する人もいることを知ることは良いことだし、おそらく一部の人の目にしか触れないタウン誌での発言だろうから、あえて紹介した。
 そういえば支那事変のころの『アサヒグラフ』に林芙美子支那で、兵士に負んぶされて渡河する大きな写真があった。「高揚」とは便利な言葉である。
アサヒグラフ』は、戦局が一段落し変化もなく膠着状態に陥ってからは(主に42年末から)、もっぱら占領地や国内の国威宣揚写真などを掲載し、殆ど見るべき報道写真は無くなってしまう。アメリカが総力を挙げて反撃の準備をしている報道などは皆無だった。そんな中から当時の情況が想像出来そうな写真をいくつか紹介しよう。


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 日本文学報國会の小説部会と詩部会が大政翼賛会の唱導する「建艦献金」の国民運動に応えて『辻小説』『辻詩集』を編纂して協力したことを知らない人はいないと思う。しかし、そこに収録された作品について論究されることは少なくなった。又、論究されていても、「面従腹背」とか「論じる価値もない作品群」などといった文脈で済まされている。ここに紹介するのは「建艦へ文人の熱意凝集」のキャプションで収録されている写真である。(写真3,4,5、6)マイクロホンの前で自作朗読している野口米次郎、報国会事務所に集まった小説原稿を整理している久米正雄福田清人などが写っている。国難に献身するという大義名分があれば一斉行動に無感覚になることが文士でも例外でない証明である。(43.5.5)


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 つぎの写真は障壁を校門に建てて、これをよじ登らなければ登校も下校も出来ないという中学生の「鍛錬」写真。静岡県掛川中学校でのこと。(43.8.18)それで思い出されるのは、長野市の後町国民学校の日本一と言われた軍国教育である。長年、同校の資料集めをしてきた。その軍国教育を発表するつもりだが、秋に行われる運動会のプログラムが未だに入手できず、そのままになっている。閑話休題



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 つぎは朝鮮にも徴兵令が施行され、はれて日本の陸軍航空兵士になった朝鮮半島の青年が休暇で家郷に帰還する姿を撮影したもの。(43.9.8)
 航空兵になった若者たちは、示威・訓練と航空兵募集宣伝を兼ねてそれぞれ出身地の上空を飛行したのだが、半島の航空兵の、そんな写真もある。



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 つぎのものは日本婦人会東京都支部の会員たちが銀座に出向き、長袖姿の婦人たちに「決戦です! すぐ、お袖をきつて下さい!」の「警告カード」を渡す状況を報道したもの。大妻学院の創立者大妻コタカが切った長袖は弁当の風呂敷や買い物袋にしましょう、決戦です、真っ先に心の長袖を切りましょう、と贅沢追放をのべている。「贅沢は敵」の時代があったのだが、贅沢の定義は多様である。(43.9.22)


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 軍の空港基地で飛行機の清掃、点検、修理などを行う整備員の中に「女子技術傭員」とよばれた女性たちがいた。この写真はそんな彼女たちの勤労の姿を紹介したもの。横山美智子と窪川稲子が工場に挺身する(働くとか労働とかという表現はなかった)彼女たちに檄文を寄せて暗に督励している。(43.10.20)



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 前後するが、43年8月1日に「万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵に安ンセシム」という大御心によって、日本の支援のもとイギリスから独立した新生ビルマ(現、ミャンマー)の「感激に湧くビルマ」報道写真(43.8.25)と、それを讃える金子光晴の詩(『日本少女』43年10月号)を紹介しよう。光晴が戦中、一篇も戦争協力の詩を書かなかった反戦詩人であるなどという評価が出鱈目であることを証明する詩である。


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 労働力の不足を補うため、中学生や女学生が軍需工場に動員されたが、登校した生徒たちを引率して工場へ動員するといった無駄を省いて、学校そのものを工場にして授業を兵器生産に当てようと、いわゆる「学校工場」が出現した。この写真は目黒の洗足高女(現・洗足学園付属高校)の「女学校工場」を紹介したもの。
 記事には北辰電気○○工場から材料を貰い、作業するとあるが、どのような兵器であるかの説明はない。(43.10.27)


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 戦争に動員されたのは中学校や女学校の上級学校だけではなかった。国民学校(小学校)も「軍の予備校」であった。写真は東京都杉並区の第七国民学校の「戦技鍛錬」を紹介したもの。(43.11.17)




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 長袖を着られなくなった女性たちは、決戦下の公認衣装である「もんぺ」スタイルで颯爽(?)と闊歩した。人気映画女優のもんぺ姿が雑誌の紙面をにぎわした。(43.12.22)
 美女たちの着用姿は一応さまになったが、けっして良いながめではない。つぎの写真は洗足学園に呼応して紹介された福岡県立筑紫高女の戦う女学校工場。この号(44.1.19)の表紙は飛行機を造る女性たちで、片倉工業○○工場でのスナップとある。女性が兵器生産に携わることは日常になってきた、という宣伝だろう。


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 広瀬軍神の銅像については先述したが、この写真は秋田県横手町で開催された「雪の芸術展」の軍神雪像である。実物の銅像は見上げるほど大きかったがこれは小型である。(44.2.16)





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 『アサヒグラフ』からカラーが消えた第一号(44.4.5)の表紙写真だが道路わきに防空壕が見える。防空壕は当初は「待避所」などと呼称した。路面電車が見えるから都市であることは間違いないが、何処であるかの説明はない。この号は「待避所」の特集で、つくられたいくつかの待避所モデルが紹介されている。


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 この号には秋田県から軍需工場へ集団就職で上京してきた少年少女たちの写真も紹介されている。JRの上野駅頭には「集団就職」をテーマーにした歌謡(「ああ上野駅」)を記念した歌碑あるが、それは敗戦後の経済復興で東北から動員された少年少女たちを記念したものだ。集団就職で子どもたちが動員されたのは、戦前からであったことを、現在、その歌碑を眺める人たちが知っているだろうか。




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 享楽追放でバーやカフェーが営業を中止し、あらたに「国民酒場」「雑炊食堂」が登場した。こんな言葉を知っている世代は、どんどん消えている。写真は「決戦新商売」として紹介されている。(44.6.14)




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 学校工場のことは既に触れたが、44年の夏ころからは「教室工場」に拡大し山村以外の学校は、すべて軍需工場になった。この写真は「幼きものの戦場」と題して紹介された横浜市鶴見区国民学校(小学校)である。
教室は「米英撃滅決戦室」になっている。(44.7.19)



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 千葉県銚子の高等女学校の生徒が血書して○飛行部隊への入隊を熱望、許されて17名の女学生が女子整備員として入隊を許可された。彼女たちは朝7時30分から挺身して飛行機の整備作業に従事した。血書は、血でかかれた文書で、堅い決意や誓約を証明する最高の文書といわれていた。彼女たちが整備している飛行機は「隼」だろうか。(同号)
 血書で思い出すのは、特攻隊の兵士には、使い捨てでかまわない女性を採用して欲しい、と大臣に血書嘆願した女生徒のことが思い出される。当時、女性にしてこの覚悟あり、と話題になった。生き延びていたから、戦後、インタビューを申し入れたが断られた。  目線によっては、全くつまらない報道写真ばかり紹介しているが、開戦直後の何枚かの写真以外は、『アサヒグラフ』にも、これといった写真が見あたらないのである。で、報道写真に過ぎない写真ばかりだが、現在では、希少価値があるだろうと愚考するから、いましばらく(戦時期『アサヒグラフ』最終号まで)つきあっていただこう。