では、富山の町の始まりとなったいたち川を散策してみましょう。
いたち川の散策は何と言っても桜が咲く春が最高ですよね。
ところで、いたち川の歴史を少し紐解いてみましょう。
富山市内にいたち川と松川が流れていますが、松川はかつての神通川です。今の神通川は、明治の頃に旧河川道を利用して真っ直ぐに富山湾に流れるように付け替えました。それ以前は今の松川が神通川でした。
しかし、中世には、神通川は呉羽山の下を流れていたのです。「富山市史」(旧版)によれば、天正8年に神通川は大洪水となって、富山城の北を流れるようになったとあります。
江戸時代、岩瀬からたくさんの海の産物が神通川を利用して富山に荷揚げされました。また、飛騨からは、たくさんの材木が神通川を利用して木町にもたらされました。木町の浜は大いに賑わったと言います。かつて八人町には魚市場がありました。その名残から今も蒲鉾や鱒寿司、そして昆布屋さんの店があります。これらの写真は、サイトをご覧下さい。
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木町の浜の本町観音堂から歩いてみましょう。
ここに万霊塔が建っています。この塔は江戸時代、神通川で水死した人の霊を供養すつために立てられました。
ここは木町の浜という別称があります。木町は本町と町名変更になりましたが、今木町という町名が今も残っています。
少し歩くと、松川といたち川の合流点に出ます。
江戸時代、神通川には舟橋が架けられていました。しかし伝承によると、舟橋をかけたのは佐々成政で、その舟橋は、今の小島町あたりにあったとされ、その由来を示す看板がここにあります。
ここからいたち川に沿ってを歩いてみましょう。
少し歩くと花見橋に出ます。小島の橋とも呼ばれたこの対岸に大きなスーパーマーケット大坂屋がありますが、かつては八清楼という料亭でした。芸者衆もいて華やいだ所でした。その北側に赤十字病院がありましたが、今はマンションに変貌しています。
かつては華やかな町だったのですね。
このあたりは、戦災復興で道路が付け替えられてかなり代わって変わっていますが、ソバ屋さんの「つるや」は60年前から営業しているそうです。
この橋から眺める桜は実に綺麗ですね。 桜を眺めながら、川縁の遊歩道を更に登っていきましょう。
遊歩道にはお手洗いも整備されています。
いたち川にはいくつもの橋が架かっています。花見橋の上流の次の橋が月見橋。国道41号線です。 かつてはここに舟を浮かべて月見の宴をしたとか。ここからいたち川は大きく東に蛇行します。
月見橋の次が雪見橋です。江戸時代にはここに橋が架けられていました。
やがて石倉町の泉橋に出ます。ここの「石倉町延命地蔵尊」は万病に効くということで、水くみ人が絶えません。安政5年の大地震で、常願寺川に水源を持ついたち川に濁流が押し寄せ多くの人が犠牲になりその供養として多くの地蔵が建てられました。この地蔵尊もそのような由来を持ちます。
では、富山の町の始まりとなったいたち川を散策してみましょう。
いたち川の散策は何と言っても桜が咲く春が最高ですよね。
ところで、いたち川の歴史を少し紐解いてみましょう。
富山市内にいたち川と松川が流れていますが、松川はかつての神通川です。今の神通川は、明治の頃に旧河川道を利用して真っ直ぐに富山湾に流れるように付け替えました。それ以前は今の松川が神通川でした。
しかし、中世には、神通川は呉羽山の下を流れていたのです。「富山市史」(旧版)によれば、天正8年に神通川は大洪水となって、富山城の北を流れるようになったとあります。
江戸時代、岩瀬からたくさんの海の産物が神通川を利用して富山に荷揚げされました。また、飛騨からは、たくさんの材木が神通川を利用して木町にもたらされました。木町の浜は大いに賑わったと言います。かつて八人町には魚市場がありました。その名残から今も蒲鉾や鱒寿司、そして昆布屋さんの店があります。これらの写真は、サイトをご覧下さい。