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茅ちゃん日記

世の中のこと、思うことをつづります

毎日新聞 戦後70年:数字は証言する

 このような特集を組んでいただきありがとうございます!


戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争(1) - 毎日新聞

 

 

第一回230万人はどのように戦死したのか

 

 

日中戦争から太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属の数について、日本政府は230万人(1937~45年)という数字を公式に採用してきた。だが、彼らがどこで、どのように亡くなったかについては不明確な点が多く、「6割が餓死した」との学説もある。神風特別攻撃隊を題材にした小説、映画が話題になっている今。約4000人とされる航空特攻による戦死者以外の、229万人余はどのような最期を遂げたのか。そんな疑問から、データをひもといてみた。【高橋昌紀/デジタル報道センター】

 

「戦病死」とその他の割合

種別
戦病死 1400000
その他 900000
900,000 (39.1%)
 

戦病死した兵士 地域別の割合

出典:藤原彰著「餓死した英霊たち」

餓死、戦病死が約6割 兵站軽視のツケ歴史学者・藤原彰氏の独自分析 

 軍人・軍属の戦没者は、直接の戦闘で亡くなった戦死者と、従軍中に病気などで命を落とす戦病死に大きく分けられる。総務省厚生労働省などによると、戦没者230万人を戦死、戦病死などの死因別に分類した公的な記録は存在していないという。終戦前後の混乱時に多くの資料が失われたことや、そもそも負け戦における記録の難しさなどが影響している。

一方、研究者の間では、日中戦争から太平洋戦争における日本軍の特徴に餓死者の異常な多さが指摘されてきた。歴史学者の故・藤原彰氏(一橋大名誉教授)は自著「餓死した英霊たち」(青木書店)で、厚生省(現厚生労働省)援護局作成の「地域別兵員及び死没者概数表」(1964年)などを基礎データに独自の分析を試みた。

例えば、44年3月にインド北東部の都市インパールの攻略を目標に開始した「インパール作戦」について、参戦したある中隊長が手記に「中隊310人のうち、戦死40人、戦病死96人、患者42人」と記録していたことなどに着目。同作戦が展開されたビルマ・インド方面の戦没者約18万5000人のうち、約78%に当たる約14万5000人を戦病死者ではないかと推定した。(図参照)

こうした地域別の数値を積み上げて、全戦没者の60%強、140万人前後が戦病死者だったと計算。さらに「そのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけた。陸軍参謀本部、海軍軍令部をはじめとする日本軍の指導層が、兵站(へいたん)を軽視したツケを、末端の兵士たちが支払わされたといえる。

同著の「むすび」で、藤原氏は餓死がサンゴ礁の孤島や熱帯性の密林だけでなく、多くの人が暮らすフィリピン、ビルマ、中国大陸などでも起きていることを強調。「輸送補給、休養や衛生といった軍隊生存の必要条件までもが作戦優先主義のために軽視または無視された」と、作戦参謀らのエリート軍人を批判している。

 

戦場別戦没者

ガダルカナル島の戦い(1942年8月~43年2月=ソロモン諸島ガダルカナル島

日本軍は制空権を失い、陸軍部隊や火器・糧食などを積載した輸送船が次々に撃沈された。苦し紛れに駆逐艦を暗夜に送り込む通称「ネズミ輸送」を採用したが、成果は微々たるものだった。補給が途絶えた前線部隊は継戦能力を失い、食糧の確保さえままならなくなる。戦傷ではなく、戦病による死者が続出。兵士たちはガダルカナルを「餓島」と呼ぶようになった。戦没者約2万800人のうち、戦病死(栄養失調症、熱帯性マラリア、下痢、かっけなど)は75%近くを占める。

出典:「戦史叢書」など

インパール作戦(1944年3~7月=インド・インパール

ビルマのジャングル地帯と急峻(きゅうしゅん)な山岳地帯が、攻勢をかけた日本軍の前に立ちふさがった。道路を泥沼に変える雨期の大雨がさらに加わり、部隊移動と物資輸送は困難を極めた。第15軍の牟田口廉也司令官は荷駄用の牛を食糧にも転用する「ジンギスカン作戦」を発案したが、成功するはずもなかった。対する英軍は制空権を握り、空中からの補給を受けることもできた。日本軍は投下された英軍物資(通称「チャーチル給与」)を拾い、飢えをしのぐ有り様だった。主力3個師団の兵力は2割ほどに激減し、戦闘力を喪失した。

出典:「戦史叢書」など

中部太平洋諸島247,200人

米軍は「飛び石作戦」を展開し、島伝いに反攻を開始する。日本軍はギルバート、マーシャル、マリアナパラオの各諸島に守備隊を配置。しかし、圧倒的物量の米軍の前にサイパン島(守備隊約4万7000人)、グアム島(同約2万2000人)のように玉砕が相次いだ。あるいは帝国海軍の要衝だったトラック島のように素通りされた部隊は、飢餓に苦しむことになった。

主な戦闘
1943年11月~ ギルバート・マーシャル諸島の戦い
1944年6月~ サイパンの戦い
1944年7月~ グアムの戦い

フィリピン498,600人

陸軍は満州駐留の部隊などを南方に転用する。しかし、制空・制海権を失っていたため、多数の輸送船が撃沈された。「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文将軍が指揮したが、前線部隊は火器・弾薬、食糧などが不足。生存困難なジャングル地帯へと追い込まれていった。日本の強圧的な占領政策に反発し、他地域と同様に現地住民もゲリラ化した。参加兵力約63万人のうち、7割以上が戦死、戦病死する。

主な戦闘
1941~42年
  44~45年
フィリピンの戦い
(1944年のレイテ沖海戦など)

樺太・千島11,400人

日本軍がミッドウェー海戦と同時期に占領したアリューシャン列島は米国領であり、その奪還には米国政府のメンツがかかっていた。アッツ島の日本軍守備隊約2700人に対し、米陸軍は約1万1000人を投入。補給、救援の望みのない日本軍は全滅する。終戦直前には樺太千島列島ソ連軍が上陸。8月15日のポツダム宣言受諾後も戦闘は続いた。

主な戦闘
1943年5月 アッツ島の戦い

小笠原諸島15,200人

硫黄島はマリアナ諸島と日本列島のほぼ中間地点にある。米軍はB29爆撃機緊急着陸用、護衛戦闘機の作戦拠点として、占領をもくろんだ。日本軍司令官栗林忠道中将は水際防御は艦砲射撃にさらされるとして、洞窟陣地に籠もり内陸部での持久戦を展開。約1カ月の抵抗の末、栗林中将を含めた守備隊はほぼ全滅した。

主な戦闘
1945年2月~ 硫黄島の戦い

ニューギニア127,600人

日本軍は1942年3月に東部ニューギニアに上陸し、最大都市ポートモレスビーの占領を目指した。連合国にとってもオーストラリア防衛の最後の拠点であり、将来のフィリピン奪還のためにも必要な重要拠点であった。激戦は終戦まで続いたが、ここでも日本軍は制空・制海権を失った。補給の途絶えたジャングル、山岳地帯にあって、兵士たちは飢餓に苦しんだ。

主な戦闘
1942年3月~ ポートモレスビー作戦

マレー半島シンガポール11,400人

イギリスの東洋支配の象徴であり、太平洋とインド洋を隔てるシンガポールは「東洋のジブラルタル」と呼ばれた。この戦略的な重要拠点を確保するため、日本軍は開戦当日にマレー半島に上陸。電撃的な占領後に「昭南島」と改称した。一方で、連合国の主戦力である米軍の反攻ルートとは離れていたため、この地域は終戦まで日本の占領下に置かれた。

主な戦闘
1942年2月 シンガポールの戦い

スマトラ・ジャワ・ボルネオほか90,600人

連合国による戦略物資の全面禁輸が、日本が開戦を決意した理由の一つだった。南方の資源地帯を確保せずして、戦争を継続することは不可能。マレー半島、フィリピンなどに続き、オランダ領東インド(蘭印)地域の占領に成功した。しかし、戦争末期には米軍潜水艦などにより、日本本土へのシーレーン(海上輸送路)は途絶。南方資源の輸送は事実上不可能になり、日本の戦争経済は破綻する。

台湾39,100人

日本海軍は虎の子の航空隊を投入し、来襲した米機動部隊に反撃した。この1944年10月の台湾沖航空戦で、海軍は決戦兵力として温存していた300機余りを喪失。最後の艦隊決戦を挑んだ約10日後のレイテ沖海戦では、有効な航空攻撃力を欠くことになった。

主な戦闘
1944年10月 台湾沖航空戦

沖縄諸島89,400人

牛島満中将の率いる日本軍守備隊は硫黄島と同様、持久戦を企図。戦力不足を補うために現地召集の「防衛隊」が動員され、旧制中学の生徒による「鉄血勤皇隊」、女子生徒を看護任務に就ける「ひめゆり学徒隊」なども組織された。九州の航空基地からは航空特攻、第2艦隊(戦艦大和軽巡洋艦1、駆逐艦8)による水上特攻も実施された。一方で、上陸した米軍は「鉄の暴風」と呼ばれるようになる圧倒的な砲火力の下、日本軍を追い詰めた。

主な戦闘
1945年3月~ 沖縄戦

朝鮮26,500人

1945年8月9日に極東ソ連軍が侵攻を開始し、現在の北朝鮮の日本海側にも部隊を上陸させた。防衛する日本軍との間で、散発的な戦闘が発生した。

満州46,700人

南方戦線への兵力抽出で、“無敵”と言われた関東軍の戦力は低下していた。一方、ソ連は1945年4月、日ソ中立条約の延長は求めないことを日本に通告。翌月のドイツ降伏以降はシベリア鉄道を最大限活用し、欧州にいた戦車師団などで極東戦力を強化した。8月9日に電撃的な侵攻を開始した後は旧満州国の首都だった新京(現・長春)も陥落させ、日本が夢見た「五族協和」「王道楽土」は崩壊した。

中国455,700人

1937年7月の盧溝橋事件で、日中戦争が始まった。翌8月には第2次上海事変が起こり、戦いはエスカレートしていく。38年1月に日本の近衛文麿首相は「国民政府を対手とせず」との声明を出し、和平への道を事実上閉ざしてしまった。日本軍は北京、南京、広東、武漢などの主要都市を攻略するが、日本軍の支配は「点と線」にしかすぎなかった。重慶に後退した国民政府は毛沢東共産党と協力(国共合作)し、徹底抗戦。戦線は泥沼化した。撤兵を求めていた米国との外交交渉が決裂したことで、日本は対米戦にも踏み切ることになる。

主な戦闘
1937年7月 盧溝橋事件
1937年8月 第2次上海事変
1944年4月~ 大陸打通作戦

仏領インドシナ12,400人

ドイツの電撃戦で、1940年6月にフランスが降伏。これを見た日本は、フランスの植民地、インドシナの北部地域に陸軍を送り込んだ(北部仏印進駐)。さらに41年には南部地域に進出(南部仏印進駐)。親独のフランス・ビシー政権と協定を結び、中国と東南アジアへの足がかりとした。しかし、事実上のインドシナ侵略は米英の反発を招き、太平洋戦争の一因となる。

主な戦闘
1940年 北部仏印進駐
1941年 南部仏印進駐

シベリア52,700人

終戦間際に参戦したソ連軍の捕虜となった日本軍兵士らは、シベリアやモンゴルなどの強制収容所に移送された。その数は約60万人と言われ、抑留期間は最長11年に及んだ。極寒の中、不十分な食糧配給と衛生状態のもとで、過酷な労働に使役された。1993年10月に来日したロシアのエリツィン大統領(当時)は公式に謝罪。「この非人間的行為に対し、謝罪の意を表明する」などと語った。

主な戦闘
1945年8月9日 ソ連参戦

タイ7,000人

英国領のビルママレー半島に侵攻するため、日本軍はタイ領内を通過する必要があった。タイは当時、東南アジア唯一の独立国。最終的に日本軍の要求は認められ、両国の間には攻守同盟が結ばれる。日本軍が駐留したが、タイは独立国としての地位を保った。タイは米英にも宣戦布告し、大東亜会議に参加する。

日本103,900人

陸軍は主要都市に師団・連隊などの駐屯地を、海軍は神奈川県・横須賀、広島県・呉などに鎮守府などと呼ばれる拠点を設けていた。これらは航空基地と共に連合国軍の攻撃の対象となった。原子爆弾が投下された広島は日清戦争時に大本営が置かれるなど、軍関連施設が集中した「軍都」として知られていた。太平洋戦争中は広島城内に陸軍の中国軍管区司令部が置かれていたが、原爆投下で全滅した。

主な戦闘
1945年3月10日 東京大空襲
1945年8月6日 広島に原子爆弾投下
1945年8月9日 長崎に原子爆弾投下

軍人・軍属の地域別戦没者数(1937~45年)

出典:旧厚生省援護局

戦線拡大の果て、戦没者 広大な地域に

当時の日本にとって、戦争の継続に必要な石油、鉄鉱石、ボーキサイト、ゴムなどの戦略物資を確保するため、南方の資源地帯の確保は死活問題だった。南方資源による自活自営体制を確立したうえで、防備を固め反攻に出てくるであろう米軍を迎え撃つことが、当初の戦略だった。

しかし、真珠湾マレー半島などにおける緒戦の戦果が、目をくらませた。日本本土とハワイの中間地点にあるミッドウェー島、オーストラリアに隣接するニューギニア島の占領を目指すなど、日本軍は国力の限界を超えた作戦を多方面で展開。特に地上戦では補給が途絶し、損害を拡大させる主因となった。

厚生省(現厚生労働省)援護局は1964年に国会からの要求を受け、「地域別兵員及び死没者概数表」を発表。日中戦争が始まる37年から太平洋戦争が終わる45年までの軍人や軍属の戦没者(当時の発表では総数が212万1000人)について、地域ごとに内訳を示した。左図の通り、南洋諸島東南アジア、中国大陸などにわたる広大な地域で、膨大な数の日本の軍人や軍属が命を失ったことが分かる。

 

陸軍年別徴兵数

現役兵」と「召集兵」の人数の推移

 現役兵召集兵
1941 年 1110000 1000500
1942 年 1181000 1219000
1943 年 1379000 1521000
1944 年 2087400 2012600
1945 年 2774000 3626000
1,181,000
 

出典:国民経済研究所

 

深刻な戦力不足で民間人「根こそぎ動員」

連合国の素早い反攻で制空権と制海権を奪われた日本軍は、多大な出血を強いられ、敗走時にはさらに損害を拡大させた。太平洋全域に広がる大小の島々などに逐次投入された兵士たちにとって、補給が途切れた中での死守命令は玉砕に等しいものだった。政府・軍部は、国民の根こそぎ動員で戦争継続のための戦力を補充しようとする。

1944年には、本土防衛や戦争継続のため必要不可欠な領土とされた「絶対国防圏」が破られ、台湾、あるいは沖縄への米軍侵攻は時間の問題となっていた。米軍は主要な拠点以外は素通りし、島伝いに日本本土へと迫る「飛び石作戦」を展開。無視されたトラック島などに駐留した多くの日本軍守備隊は遊兵となり、餓死の危機に見舞われた。陸軍参謀本部は旧満州・中国の部隊を南方戦線へ転用し続けたが、輸送船が撃沈破され、海没する部隊が相次いだ。

こうして戦力不足は深刻化する。そんな状況がよく分かるのが左に示した「『現役兵』と『召集兵』の人数の推移」のデータだ。「現役兵」は主に、徴兵検査で合格し入営した兵の数。徴兵検査時には「現役兵」には適さないとされた人々が、その後「赤紙」で召集された場合は「召集兵」として扱われた。また、「現役兵」として兵役を終え、2度目に召集された場合も「召集兵」となった。そうした召集兵は、太平洋戦争が開戦した41年に前年の約2.6倍に急増し100万人を突破。翌年には現役兵を上回り、陸軍兵力の過半を占めるようになった。文系学生らへの徴兵猶予も43年に解除され、翌年には現役兵も約1.5倍に急増している。

こうした「根こそぎ動員」は当然、国力全般に影響を与えた。政府は熟練工に代わり、女性や子供らを工場に勤労動員した。しかし、生産能力や品質の低下は避けられず、結局は前線部隊の戦力の低下にもつながった。召集兵自身も多くは体力的なピークを過ぎており、戦闘力を期待するのは難しかった。

 

戦陣訓…降伏が許されなかった日本兵

1941年1月8日 東京日日新聞

 

 軍人・軍属戦没者が230万人もの膨大な数に達した一因には、日本軍は降伏を認められないものとみなしていたことが挙げられる。

国際的には1929年のジュネーブ条約で、捕虜の権利は保障されていた。しかし、「非国民」とされることを恐れた皇軍兵士たちは絶望的な戦況下、最後には玉砕という名の全滅を選択したケースが多かった。

「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」。その一節で有名な「戦陣訓」が、全軍に示されたのは41年1月8日だった。兵士を奮起させ、戦場に向かわせることが目的だったと解釈することもできるが、兵士個人にとっては捕虜となることは恥辱とされ、残された家族が迫害される恐れがあったという。

公式には初の「玉砕」であるアッツ島の戦いで、日本軍守備隊は43年5月29日に最後の電報を打電した。「敵ニ最後ノ鉄槌(てっつい)」を下すとした上で、「生キテ捕虜ノ辱シメヲ受ケサル様覚悟セシメタリ」と明記。野戦病院の傷病者は自ら、または軍医による「処理」をし、軍属には武器を取らせ、攻撃隊の後方を前進させるとした。

41年1月、この戦陣訓を示達したのは当時の陸軍大臣、東条英機だった。東条は開戦直前には内閣首班となり、戦後の極東国際軍事裁判東京裁判)ではA級戦犯に指名。占領軍が逮捕に訪れた際に自殺を図ったが、失敗している。

陸軍の特攻作戦を指揮した冨永恭次もまた、戦争を生き抜いた。「昭和の名将と愚将」(半藤一利保阪正康著)によると、冨永は出撃前の訓示で「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と豪語していたという。

 

民間人の被害

 海外国内
軍人・軍属 2100000 200000
民間人 300000 500000
500,000
 

出典:厚生労働省など

戦略爆撃、民間人に大きな犠牲

第一次世界大戦時に本格投入された航空機の技術的進歩で、戦闘地域と後方地域の区別は曖昧になった。第二次世界大戦前の1937年に、スペイン内戦で反乱軍を支援したナチス・ドイツの義勇部隊「コンドル軍団」がバスク地方の小都市ゲルニカ空爆したことは、ピカソの絵画「ゲルニカ」の題材になったことで有名。都市を破壊し、敵国民の士気喪失を狙った「戦略爆撃」がエスカレートしていく。

第二次世界大戦では戦略爆撃の標的として、日本軍が重慶(中国)、独軍がロンドン、米英軍がドレスデン(ドイツ)などの都市を破壊。戦略用の兵器も4発重爆撃機、地対地ミサイルなどが開発され、最後は究極の大量破壊兵器原子爆弾にたどり着くことになる。

日本本土では米軍の空襲で、東京、広島、長崎など主な都市が焦土と化した。厚生労働省などによると、日中戦争を含めた太平洋戦争での民間人の戦没者数は約80万人。うち国内で亡くなった約50万人の半数以上が空襲による犠牲者とみられる。

一方、地上戦が繰り広げられた南洋諸島、旧満州、沖縄などでは、連合国軍の攻撃、補給線途絶による飢餓や病気、敗走のなかでの集団自決などで、民間人にも数多くの犠牲者が出た。

 

「230万人」比較すると・・・

 人数
太平洋戦争での戦没者 2300000
名古屋市の人口 2275428
2012年の死亡者 1256359
自衛官の現員 224526
2,300,000
 

出典:名古屋市役所(2014年7月時点)、人口動態統計、防衛白書(平成25年版 2013年3月時点)